てしまったのだった。うしろを向かない帆村に、なぜそんな器用なことができたであろうか。それはなんでもない。彼は小さな凸面鏡《とつめんきょう》を手の中にもっていて、その鏡にうしろのトラ十のすることをうつし、すっかりみてしまったのである。
「おい、曾呂利。そこに、お前のもっているその箱には、何がはいっているのか。おい、こっちへ、それをもって来い」
とつぜん、トラ十が、帆村の大事にしている箱に目をつけ、つよい語気でどなった。ああ、この箱! これをトラ十に渡しては一大事である。帆村は、俄《にわ》かに、一大|窮地《きゅうち》へほうりこまれた!
貴重《きちょう》なX塗料《とりょう》
このときほど、困ったことはない、と、帆村探偵はのちのちまでも、その当時のことを語りぐさにしている。
トラ十の目をつけた四角い箱には、帆村が、はるばる海外まで使をし、ようやく手に入れてきた貴重な物品が入っていた。それは一たい何であったろうか。
それは、外でもない。X塗料であった。
メキシコで発明された極秘《ごくひ》の新火薬BB火薬のことは前にのべた。BB火薬はすこぶる爆破力が大きい新火薬で、しかもこの火薬は、ほんの少量で、ものすごいきき目がある。かの雷洋丸が爆沈したのも、実をいえば、わずか丸薬《がんやく》ほどの大きさのBB火薬が、第一船艙のある貨物の中に仕かけられていて、それが爆破したためであった。X塗料というのは、その恐るべきBB火薬の爆破力を食いとめる力のあるふしぎな新材料であった。
BB火薬とX塗料!
これはともに、メキシコにおいて発明されたのである。BB火薬の発明後、三年かかって、この塗料が発明された。
このX塗料が発表されたのは、わりあい最近のことであるが、メキシコでも、このX塗料が完成するまでは、BB火薬の多量生産と、その使用とを絶対に禁じていた。
それは、なぜかというのに、ものすごいBB火薬だけあって、X塗料がなければ、あまりに危険であって、国内で取扱うことができないからだった。ことばをかえていうと、X塗料のような安全な材料で包むのでなければ、BB火薬の製造工場や貯蔵場が万一爆破したら、いかなる大惨事《だいさんじ》がおこるか考えただけでも、ぞっとする。それほどBB火薬の爆破力は、はげしいのであった。
X塗料は、政府の命令によって、すぐさま研究が開始された。よりすぐった優秀な化学者二百名が、三年間地下にある秘密の研究所で困難な研究をつづけて、やっと完成したものである。
X塗料の発明が完成したとき、メキシコの主だった人々はほっと安心の溜息《ためいき》をついた。それはBB火薬が現れた時よりも、さらに一そうよろこばれた。彼等は、自国で発明されたBB火薬のため、彼等自身が爆死《ばくし》するのは、たまらないと思ったからだ。
X塗料の発明されたことは、報告されたが、その塗料がどんなものであるかということについては、火薬以上にその秘密が厳重にたもたれた。
わが名探偵帆村荘六は、この極秘の塗料をはるばるメキシコまで受取りに行ったのである。
それはメキシコ政府の好意によって、時局がら日本へ譲《ゆず》ってもいいという申入れがあったので、政府では大喜びで、これを受けることになった。しかしメキシコ政府としては、このX塗料のことは秘密の中の秘密で、この前のBB火薬のように、悪者のためにかぎつけられて盗まれてはたいへんであるから、こんどのX塗料の見本の受取りは、非常に注意深くやってもらいたいと要求した。そこで日本側でも特に気をつけて、この件を検察庁長官《けんさつちょうちょうかん》の手にうつした。そして長官は更に注意深くこのことを取扱って、一般には目立たないように私立探偵帆村荘六をえらんで、これに重大使命をせおわせたのであった。
帆村探偵は、この重大任務に感激し、命を的に、苦労を重ねて、ついにこれを手に入れ、ここまで持って帰ったのである。彼は、その塗料をながい間、自分の足にまきつけその上を繃帯し、あたかも、足に大怪我をしているように見せかけていたのであった。いよいよ横浜入港も近くなったので、彼は、繃帯を外し、貴重なるX塗料を箱の中に入れかえた。そして雷洋丸の爆沈事件のときも、彼は命にかえて、この箱を後生大事《ごしょうだいじ》に守って、ここまで無事に持ってきたのである。
このように貴重な、そして極秘のX塗料の入った箱を、とうとうトラ十が、目をつけてしまったのである。
陸ならば、まだ逃げる余地があろう。またこれが雷洋丸の上であれば、なんとか身をかわすこともできようが、ここは、ひろびろとした洋上をただようせまい和船の中である。助けを[#「助けを」は底本では「助を」]呼ぼうにも、附近には誰もいない。海へとびこめば、こんどこそ、帆村の命は、まず無い
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