消えて、たよりになる光は、船員の手にしている手提《てさげ》ランプと、わずかに電池灯ばかりである。
それだけでは、足もとまで、とても光がとどかない。しかも、足もとに踏まえている甲板は、ひどく左舷へかたむき、船首の方は、もはや海水に、ぴしゃぴしゃ洗われている。だから、気味のわるいことといったらない。
船員は、声をからして、しきりに、救命ボートへ、船客をのせているが、これは老人や女子供が先であった。なにしろ、船がいきなり左へかたむいてしまったので、右舷の救命ボートは、下へおろせなくなった。だから、右舷のお客さまたちは、のるにもボートがなく、しかたなしに左舷のボートのあるところへあつまってきた。そこで、さわぎは、ますます大きくなり、船員が声をからしてせいりをするが、なかなかうまくいかない。
「まだ、大丈夫ですから、さわいじゃいけません。老人と子供とを先に」
「おい君、老人をつきのけて、ボートへはいりこむなんて、ずるいぞ」
「もしもし、あなたは、あとです。若い人だから」
「わたくしは、特別一等の船客であります。ボートへのりこむけんりが、あるのです」
そういって、いやにいばった外国人があった。それは、師父《しふ》ターネフであった。ターネフのうしろでは、例のうつくしい姪《めい》のニーナ嬢が、そわそわしながら、しきりにあたりに気をくばっている様子。
「なんといっても、だめ、だめ。老人の方と子供衆《こどもしゅう》が、先ですぞ」
と、船員は正しいことを、いいはる。
「わたくし、姪のニーナをつれています。ニーナは、かよわい女です。そして、彼女は、国際的に高い地位を持った淑女《しゅくじょ》です。ニーナを、はやくボートにのせるのが、礼儀です。日本の船員、礼儀を知りませんか」
師父ターネフは、やっきとなって、ボートの中へ、わりこもうとつとめている。
「ニーナ嬢は、子供さんでもないし、お婆《ばあ》さんでもないでしょう」
「気高い淑女です」
「男であろうが、女であろうが、若い人は、あとにしてもらいます。もう、これ以上、問答無用です。あなたは、うしろへさがってください」
と、船員は、師父ターネフに対し、このあわただしい際にも、一通り話のすじみちをたててターネフの横車をおしもどしたのであった。
「日本の船員、礼儀を知りません。あなたがた、いまに、思い知ること、ありましょう」
と、師父ターネフは、捨台辞《すてぜりふ》をのこして、うしろへ下った。
「師父、ボートは、だめなの」
「うん、だめだ。われわれは、別の道をひらくしかない」
「困ったわねえ。とにかく、このままでは、汽船とともに沈んでしまうわよ。なんとかして、船をはなれなければ。あの連中は、来てくれるはずだというのに、なにをしているのでしょうね」
「たしか、もうそのへんに、来ているはずなんだがねえ。仕方がない。マストのうえへよじのぼって、懐中電灯で信号をしてみよう。ニーナ、おいで」
師父とその美しい姪とは、傾斜した甲板を走りだした。
仮面《かめん》の師父《しふ》
師父ターネフは、水夫長のような身軽さをもって、マストの縄梯子《なわばしご》をよじのぼっていった。
ニーナは、その下に立って、警戒の役目をつとめているようすだ。
師父は、縄梯子をどんどんのぼっていった。そのころ、船艙から出た火は、もう甲板のうえまで、燃えうつって、赤い炎があたりをあかあかと照らしだした。
師父は、縄梯子を途中までのぼると、懐中電灯をとりだして、ぽっと明りをつけた。そして信号をしようと、手にもちなおしたとき、彼は、
「あッ!」
と、叫んだ。それは、懐中電灯をもった彼の手を、上の方から何者かが、ぐっとつかんだからである。
「あッ、何者だ。なにをする。手をはなせ」
と、師父は、英語で叫んだ。そのとき師父は、マストのうえから、下をむいて笑っている怪しい東洋人の顔を眺めて見た。それはトラ十だった。
「あははは。ターネフ極東首領《きょくとうしゅりょう》こんなところで、怪しげなる信号をしては困りますねえ」
と、トラ十は、流暢《りゅうちょう》な英語で、やりかえして、歯をむきだしてげらげらと笑った。
ターネフ首領!
師父は、ぎょっとしたようすだ。
「なにをいう。首領だなどと、でたらめをいうな。わしは神に仕える身だ」
「神につかえる身だって。へへん、笑わせやがる。神につかえる身でいながら、さっきはなんだって、おれを爆死させようとしたのかい」
「なにをいいますか。あなたは気が変になっている」
「気が変なのはお前たちの方だ。知っているぞ。花籠《はなかご》の中に、おそろしい爆薬をしかけて、おれの前へおいたじゃないか。あの停電のときだよ。ぷーんと、いい匂いのするやつがおれの前へ持って来やがったから、多分それは若い女にちがいな
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