えない何かのなやみがひそんでいるもののようであった。

   出迎人《でむかえにん》

 房枝は、その夜は、警察署の保護室ですごした。
 その翌日となって、房枝は、警察署を出ていいことになった。そのとき、ミマツ曲馬団の生き残り組の中に入っていたスミ枝も、一しょに出ることを許された。
 スミ枝は、署の外に出ると、房枝のそばにすがりつかんばかりにして、一時もはなれようとはしなかった。
「房枝さん、どうぞ、あたしを残していってしまわないでよ、ねえ」
「大丈夫よ。これから、一しょに働き口をさがしましょうよ」
「ほんとう? うれしいわ、あたし」
 と、スミ枝は、またつよく房枝の腕《うで》にすがりついて、
「ああ房枝さん。あたしの持っているこの包の中にね、あなたの持物も、すこしばかり入っているのよ」
「あら、そう」
「うちの曲馬団の向かいに、大きな工場があるでしょう」
「ええ、あるわ」
「あそこの工場の中へ、曲馬団の衣裳や道具なんかが、ばらばらと落ちたんですって、あたしあの翌朝、浅草《あさくさ》の小母《おば》さんところを早く出て、曲馬団へかけつけたんだけれど、工場の前でうろうろしていると、工場の守衛さんが、あたしのことをおぼえていて、こっちに、お前のところのものがたくさん落ちてきたよといって見せてくれたのよ。話をきいて、びっくりしたけれど、あたし、欲ばりだもので、早速その品物を見せてもらって、自分のものを選《よ》って持ってきたのよ。ついでに、房枝さんのものも持ってきたわ」
「あら、スミ枝さんは親切ね」
「そういわれると、あたしはずかしいわ。だって、正直にいうと、房枝さんも死んでしまったろうから、房枝さんの形見をもらうつもりで、持ってきたんだわ。ごめんなさいね」
「形見だって、ほほほほ。本当に、もうすこしで、形見になるところだったわねえ」
「ごめんなさい。あとで見せるわね。あの、いつかの奥様みたいな方が持ってきた手箱《てばこ》もあるのよ」
「あら、そう、あのよせぎれ細工《ざいく》の手箱が」
 房枝は、道子夫人からいただいた手箱が焼け残っていたと聞いて、とたんに、なつかしく、夫人のことが思い出された。
(ああ、あの奥様はあたしが死んでしまったと思っていられるかもしれない、安心をおさせ申すために、おたずねしなければならないけれど、つい、お所をうかがっておかなかったので、こういうときに困ってしまうわ)
 と、ざんねんに思った。
 それから、房枝は、忘れていた道子夫人のことを考えつづけはじめたが、とたんに、じゃまがはいった。
「おお、房枝さん」
 いきなり、横町からとびだしてきた者があった。
「あら」
 房枝は、おどろきの声を発したが、そのままスミ枝の手をとって、急ぎ走りぬけようとした。
「房枝さん、お待ちなさい」
 よびとめたのは、ほかでもない、帆村荘六だったのである。
 房枝は、どなりつけたいような、むかむかする胸をおさえて足早に歩いた。
「おお、房枝さん」
 こんどは、別な声が房枝をよびとめた。なまりはあるが、カナリヤのようにきれいに澄《す》んだ声だった。それはニーナだった。そばには、ワイコフ医師もいた。
「あら、ニーナさん」
「あたくし、待っていました。黒川さん、あなたに会いたがっています。すぐ来てください」
「あら、そうですか。どうしたのでしょう、容態でもわるくなったんじゃありません?」
「ええ、そうです、そうです。黒川さん、至急、あなたに会いたがっています。それからね、房枝さん。あたくし、あなたのために、しんせつなことを考えました」
「親切なことって」
「あなたを、あたしのところで、よい給料で働いてもらおうと思います。仕事は、むずかしくありません」
「そうですか。でも、あたし、この方と一しょに働こうって、約束したばかりなんですのよ」
 といって、房枝はそばでけげんな顔をしているスミ枝を指した。
「おお、こちらのうつくしい娘さんですか。うつくしい女の人、たいへんよろしいんです。房枝さんと一しょに働いていただきましょう。その仕事、たいへんいい仕事です。くわしいこと、あとで話します。自動車が待っていますから早くのってください」
 房枝とスミ枝が、顔を見合わせて、どうしようかと考えているうちに、ニーナは、自分の思ったことを、どんどんやった。道ばたに待っている自動車のところへ来ると、ワイコフに扉《ドア》をひらかせ、二人をおしこむようにして、自動車にのせてしまった。
「あら、ちょっと房枝さん。すてきな自動車ね」
 スミ枝は、もう自動車に気をうばわれてしまっている。
 房枝は、走りだした自動車の窓外に、目を走らせた。電柱のそばに帆村が立って、じっと房枝の方を見おくっていた。
「ほほほ、房枝さんをおこらせた探偵さん、くいつきそうな顔していますね」
 ニ
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