天井裏へ抜けて出た。
懐中電灯の光芒《ひかり》が縦横に飛び動いて、四辺《あたり》の状態をそれぞれの眼に瞭《はっき》りと映して呉れた。そこは、上って見ると、こうも広々としているものかと思われる程、ゆったりとした天井裏であった。頑丈な棟木《むねぎ》が交錯《こうさく》して、奇怪な空間を形作《かたづく》っている。と、十間ばかりの彼方に、正《まさ》しく俯臥せに倒れている屍骸が認められた。
主人の証言によって、それは些《さ》の疑いもなく由蔵の屍体であると判明した。
赤羽主任は、殆んど迷宮に途惑《とまど》った人間のように、甚《はなはだ》しく焦立《いらだ》ちながらも、決して検証を怠《おこた》らなかった。
由蔵の屍体は、女湯の惨殺体と同様に、咽喉笛の処に鋭い吹矢が立っていた。そして、四辺《あたり》一面の血の海は、次々と発見された事件の衝動に麻痺《まひ》された一同の心に、只燃えつつある絨鍛《じゅうたん》の如くに映った。
しかし、次に、一同は異様なものの落ちていることを発見した。それは筒状《つつじょう》の望遠鏡と、もう一つは脚のない活動写真撮影機であった。更に、犯人が兇行に使用したに違いない吹矢や、吹矢の筒も片隅の方に発見された。パンの食いかけ、蜜柑《みかん》の皮、それらも決して忽《おろそ》かには出来ぬ発見物と見做《みな》された。
赤羽主任は懐中電灯を藉《か》りて、由蔵の屍体の周囲を丹念に調べてみたのち、ちょっと首を傾《かし》げて云った。
「おい、誰かちょっと手を借して呉れないか。この屍体の頸を左へ、四五寸ばかし動かしてみるんだ」
心得顔に一人が屍体の頭髪を掴んでズルズルと左へ曳き寄せた。と、赤羽主任は、吹矢の一本を取上げて、その尖端《さき》で由蔵の頭のあった辺を探っていたが、暫くすると、コツンと音がして、ポカリと眼の前に一つの穴が開いた。
「これだな!」
赤羽主任は、その丸い穴から下を覗いてみた。果せるかな、眼眩《めま》いを感ずる程遥かの真下に、先刻《さっき》まで取調べていた女の屍体が横っている。――紛《まぎ》れもなく、其処は女湯の天井裏だったのだ。
やがて、赤羽主任は、その節穴《ふしあな》をふさいでいた血染《ちぞ》めの栓《せん》を、吹矢の先に刺して懐中電灯の光を借りて、じいっと見つめた。それは、決して単なる木栓や、材木の節ではなく、実に巧妙に作り上げられた蓋様《ふたよう》のものであった。そして、その金属の蓋の真ん中を打ち抜いて、円いセルロイドの小板が嵌《は》め込んであるものであった。が、それも矢張り血潮に染っていた。
2
次から次へと、意外な事件の連続と、それにも増して奇怪な事実の発見に依って、居合せた刑事連は、ひとしく驚愕《きょうがく》の眼《まなこ》を瞠《みは》った。が、誰よりも彼よりも、歯の根も合わない程|愕《おどろ》いたのは、向井湯の主人であった。
自分の家の天井に、斯《こ》うした油断のならぬ節穴《ふしあな》があったことさえ、夢にも知らない事であったのに、その上、誰が持ち込んだものか、望遠鏡やら、活動写真の撮影機やら、吹矢やら、またパンの欠片《かけら》や蜜柑《みかん》の皮といった食物まで運ばれていた――など、何が何やら、彼にとって薩張《さっぱ》り訳の判らないことであった。しかも、日頃忠実であって、深い信頼を懸《か》けていた由蔵が、僅々《きんきん》の時間に、場所もあろうにこんな所に屍骸と化して横《よこたわ》っているとは!
彼は、天井裏にペタンと坐ったまま、情ないのと恐怖とで涙に暮れていた。と、泣けて泣けて仕方がない程の気持の中にも、何か異常を感じたのだろう、ひょいと立上った彼は、今迄坐っていた足の下をぞろりと撫《な》でてみたのち、何かに触れて声を上げた。
「何だ何だ!」
懐中電灯の光線が、さっと飛んで来た。刑事たちの注視が一様に其処《そこ》へ集った。
「やッ! 電線だ、こりゃ電線だぜ!」
主人は、一条の細い電線の上に坐っていたのだ。それが足の肉に喰い込んでいた痛みが偶然発見をもたらしたのである。
「電線!」という声に、一同は先刻《さっき》の感電騒ぎのあったことを思い出した。そうだ、井神陽吉が男湯の中で感電して卒倒《そっとう》した事件は、今の今迄、恐らく皆の脳裡《のうり》から忘却《ぼうきゃく》されていたのであろう。それほど、一同は異常に狎《な》れていた。それを今、電線の発見から、再び一同の頭には関係づけられて考えられて来た。
赤羽主任は、つかつかとその電線の所在箇所《しょざいかしょ》に近寄って色々と調べてみた。と、それは蝋引《ろうび》きのベル用の電線で、この天井裏を匍《は》い廻っている電灯会社の第四種電線とは、全然別種のものであることが判明した。又、それは大して古いものではないという様なことも判って来た。赤羽主任が、尚《なお》もその先を辿《たど》って見ると、その電線の一端《いったん》は、電灯線の所謂《いわゆる》第四種線に絡《から》まって由蔵の屍骸の傍に終ってい、他の一端を探ってみると、棟木《むねぎ》の上に、ベルに用いるようなマグネットがあって、更に下部《かぶ》へ降りて男湯の天井を匍って電気風呂の男湯の配線の中へ喰い込んでいた。専門外のこととて瞭《はっき》りしたことは判らなかったが、とにかく、簡単ながら、男湯の電気風呂へ、何かの仕掛けが施《ほどこ》されていることだけは、誰にも首肯《しゅこう》されたのであった。
赤羽主任の脳裡には、漸《ようや》く事件の綾《あや》が少しずつ明瞭になってくるのを覚えた。そして、此の事件の犯人は、この天井裏に潜伏していて、望遠鏡と活動写真撮影機とを使用して、女湯の天井から、犯人の恋人ででもあるらしい肉体美の女を殺し、その藻掻《もが》き苦悶《くもん》して死んでゆく所を、活動写真に撮影しようと思ったのでもあろうか。つまり一種の変態性慾者である。そして、その犯行を遂《と》げるために、最初、男湯に強烈な電流を通じて、浴客の一人を感電せしめ、その混乱から人々の注意が男湯の方に集っている機に乗じ、犯人はその女を吹矢で殺して、その目的である活動写真撮影を完成し、兼《か》ねて恋愛の復讐か何かを遂行《すいこう》したものであろう。――と、これが、赤羽主任が匆々《そうそう》にまとめ上げた推理の筋道であった。
赤羽主任は考える。――それから由蔵は、何かの異常に気がついて、此の天井裏に上ってみたが、逸早《いちはや》くそれと知った犯人のために、物蔭から吹矢で射殺《いころ》されたに違いがない。それが証拠に、由蔵の屍体には、明かに格闘をした形跡が残っていないではないか。――
だが、これだけではまだ解《と》き足りない謎が大分沢山残されてある。
第一は犯人が一向《いっこう》遁《に》げ出した様子がないことである。此の風呂場で感電騒ぎが起ったとき、向井湯の直ぐ向う側にある交番の警官が、バタバタと飛び出して来た浴客の女達のあられもない姿を認めて、彼女等を訊問《じんもん》したことに依って早くも事件を知って、時を移さず表口や裏口に手配をしたことが報告されている。感電事件に居合せた浴客の男達も、陽吉の手当している間に、警官に堅く禁足《きんそく》を命ぜられていた。後から飛び込んで来た近所の連中や通行人さえ、みんな留め置かれている。猫の子一匹だって表へ出たものがないとしたら、犯人は必ず此の向井湯の中に、依然として現在も居る筈に違いない。万一その犯人が由蔵の室の窓から外へ飛び出したとしても、見張りの警官に認められぬということはあり得ない。
第二に、由蔵が、何故《なにゆえ》にこの天井裏に異常のあることを認めて、此処《ここ》まで上って来たかということである。いくら気が顛倒《てんとう》していた場合とは云え、他の人間に知らせずに、こんな所へ一人で上って来る筈はない。
第三に、最も不審なことと云えば、女湯で惨殺《ざんさつ》された彼の婦人の着衣も下駄も一物として発見されぬ事である。仮に当時の女湯の客で、手の長い人間か、狼狽者《ろうばいしゃ》が居たとして、その女の着衣を持ち出したとしても、足袋《たび》の片足や、湯文字《ゆもじ》の一枚までも残さぬなどという大胆不敵な行動が、あの際出来るものでなく、下駄の無いことに至っては、もはやそんな生暖《なまぬる》い想像は覆《くつが》えされるべきことであろう。
最後に疑問として残ることは、当時数人居たと想像される、いや、居たに相違ない女湯の客が逃げ出す時、どうしてこの女が殺されたことを誰一人として知っていないのであろうか。いくら女は気が弱いと云っても、その辺のことを考えると怪しむべき余地は充分にあろう。が、これも、殺された女が事件を他《よそ》に悠々と落ついて、たった一人で何時までも湯槽《ゆぶね》に漬《つか》っているなり、流しているふりしていたと考えれば、幾分合理性も認められるが、浴客中に、もしもその様に落ついた女が一人も居らなかった場合を考えると、天井裏に穏れて、かねて計画の機会を待っていた犯人が人知れず或る女を殺したり、活動写真を撮影したりすることも不可能となって来るから、此の辺《へん》も尚不審である。
赤羽主任は考え疲れて、頭がフラフラするのを覚えながら、一同と共に再び階下に降りて来た。
由蔵の部屋から釜場《かまば》へと梯子《はしご》を降りている時、赤羽主任は、奥の居間から、湯屋の女房が茶盆《ちゃぼん》を持って出て来るのを見た。と、同時に、彼は、ハッタと、忘れていた或事に気がついた。先刻《さっき》、女房が云ったことには、釜場の下で変な裸体の女に突き当った。その女が「女湯の方は何事もない」と云ったのにも拘《かかわ》らず、僅か幾分と云わせずして、女の屍体が発見されたではないか。女が、女湯の方へ入った時には、女の屍体はどうしても其処にあった筈である。それなのに彼《か》の疑問の女は何事も言わなかった。ひょっとすると、その女が、惨殺された女の着衣や下駄を自分の身につけて、澄《す》ました顔で表戸から出て行ったのではなかろうか? だが、もしそうだとすると、その女は一体何処から来て、彼女の真実《ほんとう》の着衣や下駄は何処にあるだろうか。仮に、その女が犯人だとしても、まさか女が裸体で天井裏にいたのもおかしいし、また女が女湯から活動を撮《と》るなども変な話である。
――そう考えながらも、赤羽主任は、孰《いず》れにしろ、その惨殺された女の着衣と下駄を探すことが、事件の解決に最も役立つものであることを知って、後ろに続いて来た部下の一人に命じた。
「由蔵の部屋の持物を全部洗ってみろ、女の持物が出て来るかも知れないからな」
梯子を降りかかった刑事の一人は、そう云われて直《ただち》に再び部屋へ取って返した。
やがて五分も経ったと思われる頃、その刑事は由蔵の部屋から顔を出して勢《いきお》いよく答えた。
「主任、ありました。何だか、おかしなものが出ましたぜ!」
「ふむ、そうか、何だね?」と主任の声。
「ま、ちょいと来て御覧なさい!」
刑事は頬の辺《あた》りを変に歪《ゆが》めて、いやらしい笑いを見せた。赤羽主任は云われるままに梯子を昇って行ってみた。
室の中央に投げ出された柳行李《やなぎごうり》の中に、一杯女の裸体写真が詰《つ》まっていたのだ。それは主にサロンの安っぽい印刷になる絵葉書や、新聞雑誌の切抜らしいものばかりであったが、更にその奥の方からは、独逸《ドイツ》文字の学術的な女の裸体研究書などが出て来た。が、それにも拘らず、目的の女の着衣は部屋の何処にも見当らなかった。
然《しか》し、斯《こ》うなると、由蔵に就《つい》ても余り軽々しく考えられなくなって来た。何故なら、それらの持物でも判るように、由蔵は立派な変態性慾者であるに違いなかったからである。
暫くして、又刑事は押入の隅から望遠鏡のサックを曳《ひ》っ張り出した。――赤羽主任の頭は愈々《いよいよ》混乱して来るのであった。……
と、其の時、釜場へやって来た人間が、やあと声をかけた。それは、赤羽主任のよく知っている警察医《けいさつ
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