い》の山村であった。
「御苦労さまで、どうも。所で赤羽さん、あの感電騒ぎをやった井神陽吉という男ですな。大分意識も恢復して来たようですが、先生|頻《しき》りに帰りたい帰りたいと言うのです。言ってきかせても解らないので閉口してますが、どうでしょうな、あんまりあの男の意志に逆《さか》らうと、心臓が昂進《こうしん》して悪いのですが、お差支《さしつか》えなかったら、あの男を一応帰らしたらと思うんですが――。ええ、もうそりゃ決して逃げられるような身体じゃありませんよ」
「じゃあ帰してやりましょう。警察の者を二三人附き添《そ》わしてやって下さい。然し一応|身元《みもと》調べをすましたんでしょうな?」
「身元調べでは先刻《さっき》注射の後で、前の交番の村山巡査にやって貰っときましたよ。村山君、ちょっと先刻《さっき》の調査を見せて呉《く》れませんか?」
呼ばれて釜場へやって来たのは、制服の巡査村山辰雄であった。彼は、事件の最初から見張り番に当って、一向犯行の経路も、捜査の経緯《いきさつ》も知らないのであった。
「村山君、他ではないが感電した男の身元調べをやって置いて呉れたそうですが――」
赤羽主任に問われて、規律的《きりつてき》に「はい」と返事した彼は、懐中から手帖を出してぱらぱらめくっていたが、或る頁《ページ》を読み上げて報告しようとした。
「おっと、ちょっと僕にだけ見せて呉れ給《たま》え!」
云われて、村山巡査は、四囲《あたり》に湯屋の夫婦やその他|役筋《やくすじ》でない人間のいることを知って苦笑しながら、その頁を開いたまま手帖を赤羽主任に手渡した。
と、見る見る赤羽主任の面には輝《かがや》くばかりの喜色が漲《みなぎ》った。
「これだ、犯人は判った!」
「えッ、犯人が判りましたか? あの、井神陽吉が、では、犯人なのですか?」
キョトンと解《げ》せぬ面持で、村山巡査は反問した。
「いや、然《そ》うじゃない。樫田武平《かしだぶへい》、あの男に違いない!」
断乎《だんこ》として云い放った赤羽主任の顔を、事情の判らない一同は不審そうに瞶《みつ》めた。
「いや、有難う、村山君。君の手帖のお蔭で図《はか》らずも犯人、いや有力な嫌疑者《けんぎしゃ》が判明した。感謝する!」
益々意外な赤羽主任の言葉、しかしそれはこうであった。
初め赤羽主任は、村山巡査の手帖を受け取った時、感電被害者の井神陽吉の身元を一見するのが目的であったことに間違《まちがい》はなかった。が、それを見ようとして、図らずもその調査項目の前に記されてあった文字が、彼をして一道《いちどう》の光明《こうみょう》を認めさせたのであった。それは――
[#ここから2字下げ]
微罪《びざい》不検挙(始末書提出)
活動写真撮影業及び活動写真機械及附属品販売業|並《ならび》にフィルム現像《げんぞう》、複写業《ふくしゃぎょう》
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]樫田武平(二四歳)
(住所)
といった、今日の事件に関係なく記入された覚《おぼ》え書きであったのだ。
赤羽主任は、それをチラと見るや、忽《たちま》ちにして脳裡に蟠《わだかま》っていた疑問を一掃《いっそう》し得ることが出来たのだ。というのは、樫田武平なる青年の住所が、村山巡査の管轄区域内の者であること、その職業がこの事件の謎を解くに最も有力なものであること、それに微罪ながらも交番巡査に始末書を取られるといったような行状《ぎょうじょう》などからして、直覚的《ちょっかくてき》に犯人推定を試みたのであった。
説明を聞いて、共に五里霧中《ごりむちゅう》にあった刑事連もひとしく同意見を陳《の》べるに到った。
だが、何にせよ、その樫田武平の身柄を捜査してみなければ、或は現場不在証明《アリバイ》などの懸念《けねん》もあるので、色めき立った刑事連は、赤羽主任の命を待つものの様にその面を仰《あお》いだ。
と、赤羽主任は、何故か悠然《ゆうぜん》と構えて急ぐことを欲《ほっ》せぬもののようである。
「非常線は張ってある。本署へ行けばきっと捕っているに違いないよ!」
先刻《さっき》までの陰鬱《いんうつ》そうな顔色にひき代えて、また何と云う暢気《のんき》さだろう!
3
だが、赤羽主任の推定が真実《ほんとう》であったことは、一同が向井湯を引上げて本署へ立ち帰った時に判明した。
「主任殿、御苦労さまでした。非常線にひっかかった怪しい奴は、みんな留置所《りゅうちじょ》へ打《ぶ》ち込んであります。そして、たった一人|全《まった》くおかしな奴がいるんです……」
一行の帰署《きしょ》を待ち構えていたもののように報告する一人の刑事の言葉を聞いて、赤羽主任はおっ冠《かぶ》せて云った。
「……束髪の女装をした奴で、名は樫田武平とね、然《そ》うだろう?」
「おお、よく御存じで。此間《このあいだ》一度、軟派《なんぱ》の事件で始末書を取った奴です」
満足そうに同行の部下を顧《かえりみ》た赤羽主任は、初めて愉快らしい笑《え》みを浮べた。
樫田武平の取調べの結果、事件の一切は判明した。
彼は、かねて、若い女が苦悶《くもん》して死んでゆく所を映画に撮ろうという、大《だい》それた野心を持っていたのだ。それは、多分に彼の変態性の欲望が原因したのであったが、職業とする所の趣味道楽が、ひどく凝《こ》り固《かたま》ったことも一部の因《いん》をなしていた。で、彼は種々《いろいろ》と研究と計画を廻《めぐ》らした結果、それが夢でなく実現することが出来ることを発見した。それには、彼の行きつけの風呂向井湯という、電気風呂を利用することが、最も容易な手段であったのだ。
先ず彼は、日頃おさおさ怠《おこた》りなく向井湯の内外を研究し、それに、特有の肉体美を備えた若い婦人を一人選んで、彼女の入浴の際、特殊の方法で惨殺しようと計画した。
事件のあった日の暁《あかつき》、彼は自家《じか》の売品《ばいひん》たるフィルムを一本と現像液を準備して、それに店にあった小形撮影機を一台と、パンや蜜柑《みかん》などの食料品、束髪の西洋鬘《せいようかつら》などを一緒に風呂敷に包み、向井湯の裏口へ赴《おもむ》いた。そして物蔭に隠れて種々《いろいろ》と様子《ようす》を窺《うかが》ったのち、午前十時頃、由蔵の隙《すき》を窺《ねら》ってその部屋から天井裏に忍び込んだ。彼が斯《か》く忍び込むまでには、充分の用意と研究が積まれてあったことは勿論《もちろん》である。彼は、先ず汽罐《きかん》を開けて自らの着衣《ちゃくい》と下駄とをその中に投入して燃やし、由蔵の部屋で由蔵の着衣をそのまま失敬して天井裏に忍び込んだのであった。
彼は、勿論相当の電気知識を備えていた。故《ゆえ》に、男湯の方の感電を計画し、またそれを遂行《すいこう》するための技術上の操作は、十分間も要さずに易々《やすやす》と行われた。それが終ると、彼はかねて探って置いた、由蔵の秘密の娯《たの》しみ場所たる、女湯の天井の仕掛のある節穴《ふしあな》の処へ来て、由蔵が設置した望遠鏡の代りに、持って来た撮影機を据えつけた。
やがて、時が来て、当日の生贄《いけにえ》となった例の女(後で判明したが、彼女はお照《てる》という二十二歳になる料理屋の女で、その日はこの向井湯の近所に住む伯母の所を訪ねて来た者であった)の肉体に魅力《みりょく》を感じ、愈々計画の実現に志《こころざ》したのであった。
その時は正午少し前だった。女湯の客は、そのお照の他に、僅に三人であった。男湯の方は前述の通り、井神陽吉と他に四人、で、頃合いを計って、彼は男湯の電気風呂に高電圧を加えた。果せるかな、手応《てごた》えがあって、井神陽吉が飛んだ犠牲《ぎせい》となったのである。それからのちは、少くとも表面だけの騒動は前述の通りであった。が、女湯の客のうち、お照を除いた他の三人は、ひとしく上《あが》り際《ぎわ》だったので、隣りの騒動を機《きっかけ》に匆々《そうそう》逃げ去ったのであった。が、お照はただ一人、湯槽《ゆぶね》の側で間誤間誤《まごまご》していた。というのは、女故《おんなゆえ》の辱《はずかし》さが、裸体で飛び出す軽率《けいそつ》を憚《はば》からせたのと、一人ぽっちの空気が、隣の事件を決して重大に感ぜしめなかったものらしかった。が、何はともあれ、樫田武平にとっては究竟《くっきょう》の機会であった。
彼は用意の吹矢を取り出すなり、狙《ねら》い撃《う》ちに彼女の咽喉《のど》へ射放《いはな》った。果して、あの致命傷《ちめいしょう》であったのだ。
転げつ、倒れつ、悶々《もんもん》のたうち返る美人の肉塊《にっかい》の織り作《な》す美、それは白いタイルにさあっと拡がってゆく血潮の色を添えて充分カメラに吸収された。が、十数秒の短い時刻で、敢《あえ》なくもお照は動かずなってしまった。
だが、樫田武平は美事な成功に雀躍《こおどり》して、そのフィルムだけを外《はず》すと、そのまま逃走しようと試みた。が、その時であった。由蔵は、別の目的を以て同じこの天井裏へ上って来たのである。というのは、彼は感電騒ぎを知るや忽《たちま》ちにして警察の取調べがこの天井裏の電線に及ぶのを慮《おもんぱか》って、其処《そこ》は秘密を持つ身の弱さ、望遠鏡を外すために人知れず梯子《はしご》を昇って這《は》い上ったのである。
当然、樫田武平と由蔵との両人が、高い天井の暗がりで睨み合うことになった。が、何分にも大きな声を出すことを許されぬ場合のこととて、互《たがい》に敵視しながらも一言も云わず、必死と眼《まなこ》を光らし合った。やがて、由蔵は、己が隆々《りゅうりゅう》たる腕力に自信を置いて、樫田武平の華奢《きゃしゃ》な頸筋《くびすじ》を締めつけようと襲いかかった。と、早くも吹矢は由蔵の咽喉笛深くグザと突刺さったのであった。――急所を殺《や》られてそのままこと断《き》れた由蔵の屍骸《しがい》を見捨てて、樫田武平は怖ろしい迄緊張した気持で変装に取かかった。かねて目論《もくろ》んで置いた通り、彼は咄嗟《とっさ》の間にも順序を忘れずに、女装の鬘を被った。
そして再び由蔵の部屋へ降りて、由蔵の着衣を脱ぎ捨てると、彼は裸体のまま右手にはフィルムの入った黒い風呂敷を提《さ》げて、大胆にも梯子を伝って釜場に降りた。そして女湯の扉口《ドアぐち》へ行こうとした、ちょうどその時彼は其処で湯屋の女房とばったり鉢合《はちあわ》せをしたのみか、ちょっと見咎《みとが》められたのであった。さすがに、これには彼もぎょっとしたが、いかにも柔い嫋々《なよなよ》しい彼の体は、充分に心の乱れた女房の眼を欺瞞《ぎまん》することに成功した。
そして、彼は、素早く女湯の扉口《ドアぐち》から中へ入って、自分が殺したお照の屍体の側を過ぎて脱衣場へやって来た。それから先、お照の着衣をつけて、下駄を穿《は》いて、何喰わぬ顔で見張りの警官にも怪しまれずに戸外へ逃走《とうそう》する迄は、難なく行われたことであった。
が、如何に緻密《ちみつ》の計画と、巧妙の変装を以てしても、白昼《はくちゅう》の非常線を女装《じょそう》で突破することは可《か》なりの冒険であった。
――樫田武平が捕縛《ほばく》されるに到ったのも、すべてこの最後の冒険に敗れたがためであった。
さて、かくして怖るべき「電気風呂」の怪死事件は、犯人の捕縛と共に一切《いっさい》闡明《せんめい》されるに到った。
やがて、あのフィルムは、警視庁へ移送されてその犯罪捜査に携《たずさわ》った一同の役人並に庁内《ちょうない》主脳者《しゅのうしゃ》の前で、たった一度だけ試写された。
が、凡《およ》そ其試写会に立会った程の人々は、期待していた若き一婦人の断末魔《だんまつま》の姿を見る代りに、ま白きタイルの浪の上に、南海の人魚の踊りとは、かくもあるかと思われるような、蠱惑《こわく》に充ちた美しいお照の肉体の游泳姿態を見せられて、いずれ物言わぬ眼に陶然《とうぜん》たる魅惑《みわく》の色を漂《ただよ》わしていたもの
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