めていた女の頸筋から一寸程離れた肩先に附着していた血痕《けっこん》が、チラリと閃《ひらめ》いたようだったからである。
「おやッ?」
 と叫んだ時、チラッと再び、その辺の血痕は鋭く光った。そして、同時に、その血は頸筋へかけてすうっと流れ出したではないか? 思わず掌《てのひら》を出して、赤羽主任はその上へ拡げてみた。と、まさしく、ポトリと音がして、赤羽主任の掌上《てのうえ》には、一滴の血潮《ちしお》が、円点《えんてん》を描いた。
「ヤッ血だ!」
 一層|頻繁《ひんぱん》に落ちて来る血潮を受け止めながら、赤羽主任は反射的に天井を見上げた。それに誘われて傍の人々もひとしく高い浴室の天井に首を廻《めぐ》らせた。
「やッ、あそこに、あんな、あんなものが――」
 誰かが叫んだ時、一同の眼《まなこ》は同時に同じものを認めたのであった。
 それは、高い高い、浴場特有の水色のペンキで塗られた天井であった。その天井の、ちょうど女の屍体が横《よこたわ》っている真上《まうえ》と覚《おぼ》しい箇所に、小さな、黒い環《わ》が見えていたのだ。いや、黒いと思ったのは、実は真紅な環で、血の滲《にじ》み出た環であったのだ。そこから、ポタリポタリと血潮が、青白い女の肉体に落ちるのではないか?
 打ち続く怪事に、人々の面は、今にも泣き出しそうに歪《ゆが》んだ。
 赤羽主任は、唇をヒクヒクと痙攣《けいれん》させ、顴骨《けんこつ》の筋肉を硬《こわ》ばらせながら、主人に訊ねた。
「あの天井裏へ案内して呉れ! 早くだ、何処から昇るんだ!」
 が、主人は全く当惑《とうわく》した面持で躊躇《ちゅうちょ》した。
「へッ、ど、何処から上ったもんでしょうかな?」
「自分の家じゃないか、落ついて考えるんだッ!」と、赤羽主任は、焦れったそうに、低いながらも力強く詰問《きつもん》した。
「それが、あそこへは一度も昇ったことがありませんので……。ま、とにかく裏梯子をかけてみましょう。どうぞ、こちらへ」
 周囲の人々の眼に送られて、両人が奥へ通う扉口《とぐち》を出ようとした時、刑事の一人が慌《あわた》だしく駆け込んで来た。
「主任、由蔵の室《へや》を取調べましたが、由蔵の姿は見当りません。色々調べてみましたのですが、押入の天井の板が少し浮いていたほかに、別に異常はありません。で、押入の天井板を押しのけて上ってみますと、どうやら此の浴場の天井へ抜けられるんですが、驚いたことに……」
 と、報告しながら、その刑事は天井を見上げたが、突然頓狂に叫んだ。
「吁ッ! あ奴《いつ》の血だ! 由蔵が殺られてるんですぜ!」
 赤羽主任は屹《きっ》となって、共に天井の血の穴を見上げたが、刑事の叫びを聞くより、
「うむ、人が死んでいたろう? 男か女か?」
「男です! しかも裸体です。どうも由蔵らしいと思われますが、足裏が白く爛《ただ》れていました」
「よしッ! 直ぐ行こう、案内をたのむ!」
 と、赤羽主任は、真先に立って裏口へ行こうとしたが、何事かに気がついたと見えて再び身を振り返って云った。
「だが、この女の身元だ。女の着衣《ちゃくい》を調べて見よう!」
 赤羽主任は、あちこちに転《ころが》っている桶類を跨《また》いで女湯の脱衣場《だついじょう》へ行くなり、乱雑に散らばっていた、衣類籠《いるいかご》をひとつひとつ探してみた。が、目指《めざ》す女の着衣も誰の着衣《きもの》も、一向に見当らない。
「おい、女の着衣《きもの》が見えないぞ、箱を探して呉れ」
 刑事達は、箱の扉《と》を片っ端から開いてみた。が、どの箱にもそれは見当らなかった。殺されている女湯の客の着衣《きもの》が見当らないなんて、そんなおかしい訳はある筈がないと、一同は一様に不審の面《おもて》を見合せた。もしや先刻《さっき》の混雑に紛れて、誰かがその女の着物を掠《かす》めたとしても、足袋一足、湯文字《ゆもじ》一枚も残さぬという筈はなかった。
「じゃあ、下駄はどうだ?」
 赤羽主任は躍起《やっき》となって、番台横の三和土《たたき》を覗いてみたが、その下駄も片方すら見当らないではないか?
「一体、此の女は何処から入って来たんだろう?」
 赤羽主任は脳髄の痺《しび》れるのを感じた。が、その疑問は疑問として、とにかく天井裏の屍体も、差当り放っては置けなかった。
 やがて、発見者の刑事を先頭に赤羽主任や刑事連は、釜場の梯子を上って行った。向井湯の主人も、命ぜられて兢々《きょうきょう》と一同の後に続いて昇って行った。
 由蔵の部屋は、わずか三畳敷の小室《こべや》であった。西に小窓が一つあって、不完全な押入が設けられてあった。その押入の中には、柳行李《やなぎごうり》やら鞄やらが入っている。そして、成程《なるほど》、天井の板が一枚めくられていた。一同はゴソゴソとその穴から
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