をみせて、その年若い婦人の裸体が不自然な姿態《したい》をその中に示しているのであった。――
赤羽司法主任は、たった一人でつかつかとその屍体《したい》に近づいて調べてみた。
女は、もはや夙《と》うにこと断《き》れていた。そして、左の頸と肩との附根《つけね》の所に、鋭い吹矢《ふきや》が深々と喰い込んで刺《ささ》っている。夥《おびただ》しい出血は、それがためのものであるらしい。が、その婦人の身体には、未だ幾分か温《あたたか》みが残っていた。肉附のよい、見るからに豊満な全身に亘《わた》って、まだ硬直の来《きた》していないことが、誰の眼にも生々しい事件を想像させた。恐らく此の女は、男湯の騒ぎの最中《さなか》に殺されたものであろう。そう想う人々の面に、何がなし深い恐怖と不安が漂《ただよ》い初めたのを、赤羽主任も一通り看取《かんしゅ》する余裕を持っていた。
だが、見渡したところ、浴室の窓が開いている訳でもなし、吹矢を打ち込む隙間があろうとも思われなかった。と、赤羽主任の頭にさっと閃《ひらめ》いたのは、由蔵が姿を見せないということである。
「君、ちょっと、釜場の上にある由蔵の部屋を捜索して呉れ給え。狭い梯子《はしご》で昇れるようになっている所だ」
部下の一人に耳打ちした赤羽主任は、次にも一人の部下に、容疑者《ようぎしゃ》として由蔵の逮捕|方《かた》並《ならび》に非常線を張ることを、本署に電話するように命じた。
直《すぐ》に、その二人はそれぞれの役目に就《つ》くべく其の場を去ると、赤羽主任は、向井湯の主人と女房を眼で呼び寄せた。
主人は、赭《あか》ら顔を全く恐怖で包んだまんま扉口《とぐち》の前列に立っていた。女房はというと、投げ出した蒲団の後に眼を据《す》えたまま口を開けて立ちつくしている。四囲《あたり》の人々がどうあろうと、そんな判別もつかぬらしく、ただ徒《いたず》らにその眼は執念《しつこ》く女の屍体に注がれていた。
「君たち夫婦の中で、この女の顔に見覚《みおぼ》えのある者はいないかね?」
赤羽主任の訊問《じんもん》に、はじめて我に返った両人は、再び指し示されたその女の屍体に眼をやったが、答は横に振った首でなされた。
次々と、その場に居合せた程の人々は、順に訊ねられたが、口数少く、いずれも女の身元に就《つい》ては未知《みち》との答ばかりであった。
と、何を思ったか、低い、ややもすると隣の人にさえも聴き取れないような口籠《くちごも》り方で、女房が呟《つぶや》いた。
「……しかし、変だこと!」
「何? 何処が変だね?」
赤羽主任の声に、一同は女房と共にはっと眼《まなこ》を上げた。そして、赤羽主任の眼が女房の言動《げんどう》に何事か関心を持ったらしいことに気がついて、一層緊張した沈黙が生れた。
女房は、飛んでもないことを云ってしまった、という様な不安を以て、まじまじと赤羽主任の眼を視返《みかえ》した。
「今、変だこと! って云ったじゃないか?」
「ええ、でもそれは――」
しかし、女房は云い逃れることの無駄を知って、おずおずと口を開いた。
「いえね、先刻《さっき》男湯で沈んだお客の体が見つかったとき、それがわたしの鼻の先なんでしょ。わたし、びっくりしちゃって奥へ逃げ出そうとしたんです。すると、ちょうどその時、女の人が一人、裸のまんま、わたしと衝突《ぶつか》ったんです。思わず、いけません、早くお帰んなさい――って、わたしが云いますと、その方、この女湯の方へ帰ってしまいましたが、その時もしやと思ったもんですから、私は、女湯の方は何ともありませんか、って訊ねましたんです。すると、いいえ、何事もありません、と云って、そのまま此方《こちら》へ来た筈なんですのに――それで、今思い出したもんですから、ひょいと呟いたんですわ」
「ほほう、では君の見たという女は、此の死んでいる女客じゃなかったかね? よく見て御覧!」
赤羽主任にそう云われて、今度は眉を顰《ひそ》めながら、女房は再びチラリとその方を見たが、
「いえ、全《まる》っきり異《ちが》ってますわ。何しろうす暗いのと、上気《じょうき》していたのとで、はっきり見ることも出来ませんでしたが、わたしの見た女の方は束髪だった様に覚えています。此のお客さんは銀杏返《いちょうがえ》しですものね、――ですけど、肉附きや、体の恰好など、似ていたと思えばそんな気もしますけれど……」
赤羽主任は、無残《むざん》につぶされた女の銀杏返しの髪に視線を送った。――丸々と肥《こ》えた頸筋《くびすじ》に、血に塗《まみ》れた乱れ髪が数本|蛇《へび》のように匍《は》っている、見るからに惨酷《ざんこく》な犯行を思わせずにはおかなかった。
と、その時、赤羽主任の眸《ひとみ》はパッと大きく見開いた。というのは、その今しも見つ
前へ
次へ
全11ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング