電気風呂の怪死事件
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)井神陽吉《いがみようきち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)近頃|大流行《だいりゅうこう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)むっ[#「むっ」に傍点]
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 井神陽吉《いがみようきち》は風呂《ふろ》が好きだった。
 殊《こと》に、余り客の立て混《こ》んでいない昼湯《ひるゆ》の、あの長閑《のどか》な雰囲気《ふんいき》は、彼の様《よう》に所在《しょざい》のない人間が、贅沢《ぜいたく》な眠《ねむり》から醒《さ》めたのちの体の惰気《だき》を、そのまま運んでゆくのに最も適した場所であった。
 それに、昨日今日の日和《ひより》に、冬の名残《なごり》が冷《ひ》んやりと裸体《からだ》に感ぜられながらも、高い天井《てんじょう》から射《さ》し込《こ》む眩《まぶ》しい陽光《ひかり》を、恥《はずか》しい程全身に浴びながら、清澄《せいちょう》な湯槽《ゆぶね》にぐったりと身を横《よこた》えたりする間の、疲れというか、あの一味放縦《いちみほうじゅう》な陶酔境《とうすいきょう》といったものは、彼にとって、ちょっと金で買えない娯《たの》しみであったのだ。
 陽吉の行きつけの風呂は、ちゃんと向井湯《むかいゆ》という屋号《やごう》があった。が、近頃|大流行《だいりゅうこう》の電気風呂を取りつけてあるところから、一般に電気風呂と称《よ》ばれていた。
「電気風呂はよく温《あったま》るね」などと、とにかく珍しもの好きの人気を博することは非常なものであったが、その反対に、入るとピリピリと感電するのを気味悪《きみわる》がる人々は、それを嫌って、わざわざ遠廻りしてまで他所《よそ》の風呂へ行くといった様に、勢《いきお》い、それは好《す》き好《ず》きのことではあるけれど、噂で持ちきっていたものである。
 では、陽吉はどうかというと、決してその電気風呂が好きというのではなかった。ただ、元来《がんらい》無精《ぶしょう》な所から、何も近所にあるものを嫌ってまで、遠くの風呂へ行くにも及ぶまいじゃないかといった点で、別に是非《ぜひ》をつけてはいなかったのである。
 尤《もっと》も、何時《いつ》であったか、彼の友人で電気技師を職としている茂生《しげお》というのと一緒に入った時、ひょいとした感じで、ちょっと不安を覚《おぼ》えたので、訊《たず》ねてみたことがあった。
「どうだい、この電気風呂って奴は、入浴中に人間が死ぬ様なことはないものかね?」
 すると、茂生は、何か他のことでも考えていたのか、はっとした様な態度で、しかしこう答えたものだ。
「さあ、大体大丈夫だがね、しかしどうかした拍子で電気が強くなると、心臓をやられることもあるだろうね。人間の中でも電気に感じ易《やす》い人と、感じの鈍《にぶ》い人とあるものだからね。同じ人間でも身体の調子によって、感じ易い日と、感じにくい日とがあるものだよ。とにかく、疲れ過ぎたり、昂奮《こうふん》していたり、酒を呑んでいたりして心臓が弱っている時には、電気風呂など止《や》めた方がいいよ。そりゃ普通はそんなこと滅《めっ》たに、いや絶対といってもいい位、ありゃしないがね。また死ぬかも知れないような危険なものを、許可しとく筈があるまいじゃないか、まあ、安心していいだろうよ」と。――
 だから、今日も、彼は例日《いつも》のように、いや、むしろ今日は進んでこの電気風呂へやって来たのだった。というのは、前夜、銀座あたりを晩《おそ》くまでのそのそとほっつき歩いた疲労《つかれ》から、睡眠《ねむり》も思ったより貪《むさぼ》り過ぎたためか、妙に今朝の寝醒《ねざ》めはどんよりとしていたので、匆々《そうそう》タオルと石鹸を持って飛び込んで来たのだった。
 めっきり、暖い午前なので、浴室には何時ものように水蒸気も立ち罩《こ》めてはいなかった。
 よっちゃんと呼ばれる風呂屋の由蔵《よしぞう》が、誰かの背中を流しながらちょっと挨拶した。陽吉は黙って石鹸と流《なが》し札《ふだ》を桶《おけ》の上に置いて湯槽の横手へ廻った。浴客は皆で四人、学生らしいのが湯槽に漬《つか》っているだけで、あとはそれぞれ流し場でごしごしと石鹸を使っていた。由蔵が流してやっている老人が、いかにも心地好《ここちよ》さそうに眼を細くしてされるがままに肩を上下に振っている。全くのんびりとした昼湯の気分が漲《みなぎ》っていた。
 陽吉は、そうした気分を未だ充分に感じられずに、ひょいと手拭を湯槽に浸《ひた》した。と、ピリピリといやに強い感覚、頸動脈《けいどうみゃく》へドキンと大きい衝動が伝《つたわ》った。何となく心臓の動悸《どうき》も不整《ふせい》だな、と思いながらも
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