、肌にひろがる午前の冷気《れいき》に追われて、ザブンと一思いに身を沈めた。熱過《あつす》ぎる位の湯加減である。頤《あご》の辺《あたり》まで湯に漬りながら、下歯をガクガクと震わせながら、しかも彼は身動きすることを怖れて、数瞬じいっと耐《こら》えていた。と、唐突《いきなり》、
「熱《あつ》ッ」と叫びながら、遽《にわ》かに飛び出したのはその学生らしい男であった。忽《たちま》ちに、湯槽の中は激しい波が生《しょう》じて、熱湯《ねっとう》が無遠慮に陽吉の背筋に襲いかかった。ブルブルブルと一竦《ひとすく》みに飛び上った彼は、湯槽の縁《へり》に手をかけて出ようとした瞬間、
「吁《あ》ッ!」
という叫びと共に、彼の体は再び湯の中に転倒してしまった。全身に数千本の針を突き立てられたような刺戟、それは恰《あたか》も、胃袋の辺に大穴が明《あ》いて、心臓へグザッと突入したような思いだった。指先は怪魚《かいぎょ》に喰《く》いつかれたような激痛を覚えた。
「た、救《たす》けて! で、電気、電気だ。感電だ!」
ザアッと湯の波に抗《さから》って、朱塗《しゅぬり》の仁王《におう》の如く物凄く突っ立った陽吉が、声を限りに絶叫したとき、浴客ははじめて総立ちになって振返った。由蔵は垢摺《あかす》りを持ったまま呆然《ぼうぜん》と案山子《かかし》のように突っ立っている。二人の職人風の伴《つれ》は、それと見るより呼応《こおう》して湯槽の傍へ駆けつけて来た。
「おい。兄弟、手を、手を貸した」
「よし来た!」
向う見ずに、今にも湯槽へ飛び込もうとするのを見て、例の学生風の男が大声で制した。
「危い! 待った待った。感電らしい。飛び込んだら、今度は君達がやられちまうぜ!」
「あッ、然《そ》うだった。危い危い! しかし此儘《このまま》見殺《みごろ》しが出来るもんじゃない。何とか、おい番頭さん、何とかしなければ――」
「電気の元を切るんだ。おい番頭君、早く電流を断《た》つんだよ!」
学生風の男に云われて、由蔵は漸《ようや》くあたふたと釜場《かまば》へ通う引戸《ひきど》を押して奥の方へ姿を消した。
バタバタと板の間を走る足音。カタコトと桶の転がる音など――女湯の客が、何か異常を知って狼狽《ろうばい》しているらしいけはいだった。やがて間もなく、真蒼《まっさお》になった女房が番台から裾《すそ》を乱《みだ》して飛び降りて来るなり、由蔵の駆けて入った釜場の扉口《とぐち》で甲高《かんだか》い叫びを発した。
「大変です。お前さん、大変ですよお!」
続いて太い男の声で、
「電気を切ったぞお!」
と、再び由蔵が流し場へ戻って来た。
「さあ、電気は切りました」
「大丈夫だな。じゃ、早く――」
学生上りが、いらいらと促《うなが》すのを、臆病《おくびょう》そうに老人が尻込《しりご》みした。
「ええッ焦《じ》れってえ、もう大丈夫だというのになあ。そおれ!」
と、職人風の一人が、見るに耐《た》えかねたといったかたちで、さっと勢い込んで両手を湯槽に入れた時、ドヤドヤと向井湯の主人や、下足《げそく》の小供、脱衣場《だついば》の番人のお鶴《つる》などが駆けつけて来た。
「由蔵どうしたんだ、いったい?」
主人はこの椿事《ちんじ》に対して何等見当がつかないので、むしょうに怒りっぽく由蔵をきめつけようとした。
「どうもこうもねえ、感電で客が一人この湯ん中へ沈んじまったんだ。早く救け出さにゃ死んでしまわあな!」と職人風の一人が叫んだ。
「え、感電? そら大変だ、由蔵入れ!」
主人は仰山《ぎょうさん》に驚いて、顎《あご》で由蔵へ命令した。が、由蔵はと見ると、只もうおろおろとしながらも、何か気になるらしく、一向湯槽へ飛び込む勇気を持とうともせず、縁《ふち》へ掴《つか》まったまま、左右を見廻したり、肩を振ったりして埓《らち》が明かなかった。
「ええ、意気地《いくじ》なし!」
むっ[#「むっ」に傍点]とした語調で云い捨てるなり、学生風の男は人を待たずに飛び込んだ。続いて石鹸だらけの肉体を跳《おど》らせて、ザブンと荒々しく足を踏み入れた職人風の二人。彼等はもう必然的の労働の様に、妙に亢揚《こうよう》した息使いで各々足の先で湯の中を探って廻った。泥沼に陥没《かんぼつ》しかかった旅人のように、無暗矢鱈《むやみやたら》に藻掻《もが》き廻るその裸形《らぎょう》の男三人、時に赤鬼があばれるように、時にまた海坊主がのたうち廻るような幻妖《げんよう》なポオズ――だが、それも極めて短い瞬間の印象でなければならぬ。
突如、
「吁ッ、此処《ここ》に有《あ》った!」
と、職人風の一人が両手をさあッと挙《あ》げて頓狂《とんきょう》な叫びを発した。と、同時に、冷水管を通す円い穴の向うで、「きゃッ」という叫びが弾《はじ》かれた。――そ
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