れは、先刻《さっき》狼狽して釜場の方へ飛んで行った湯屋の女房であった。彼女は、覗《のぞ》き穴《あな》へ当てた片眼の前で、余りにも唐突《だしぬけ》に職人の一人が声を発したので吃驚《びっくり》したのである。のけぞり反《かえ》るように、逃げ腰に振り返った途端《とたん》、発止《はっし》と鉢合《はちあわ》せたのは束髪《そくはつ》に結《ゆ》った裸体の女客であった。
「見ちゃいけません。見ちやいけません。早くお帰んなさい」
 前後の見境《みさかい》なく、女房はその女客を片腕で制して押し戻した。その女客は、手に何か黒いかさばったものを持っているらしかったが、此際《このさい》そんなことは、女房に取って注意を要すべきことではなかった。ただ、その女客が黙って元来た女湯の方へ行こうとするのにおっ冠《かぶ》せて、
「あの、女湯の方には変りはありませんでしたでしょうか?」
 と問いかけた。すると、その女客は引戸に手をかけたまま、ちょっと振返ったが、
「いいえ、別に何とも……」
 と、曖昧《あいまい》に答えてそのまま女湯の流し場の方へ入ってしまった。
 その引戸が閉まると同時に、女房は何故か一抹《いちまつ》の疑心《ぎしん》を感じて、念のため女湯の方を見廻りたいと思った。が、その時、男湯の方から主人の声が聴こえて来た。
「おい、早く蒲団《ふとん》を持って来い。おい、居ないか、由蔵、由蔵!」
 女房は擾乱《じょうらん》した頭で、裏口の扉《ドア》に錠《じょう》をかけると再び男湯の流し場へ駆けつけた。
 陽吉の身体が上ったものらしく、其処では色んな人々が立ち騒いでいた。寒さも忘れ、恥部《ちぶ》を隠す余裕も持てない数人の浴客、それに椿事と知って駆けつけて来た近所の人々や、通行人らしい見知らぬ顔の男達が、或《あるい》は足袋《たび》を濡らしたまま、或は裾をまくったままで、わいわいと湯槽を取囲んでいた。
「おい、早く蒲団を持って来ないか。由蔵はどうしたんだ、いったいあ奴《いつ》は何処へ行っちまったんだ?」
「あたしゃ知らないよ。交番へでも駆けてったんじゃ、ないかね?」
「そんな筈はない。もう交番の旦那は夙《とっ》くに見えてるんだ。由蔵に訊《き》きたいことがあるって、待ってるんじゃないか。ええ、それより早く蒲団を持って来いというに――」
 いずれもむしょう[#「むしょう」に傍点]に昂奮した口調で、こんなことを応酬
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