《おうしゅう》したのち、女房は返事も口の中でして奥の間へ飛び込んだ。押入から蒲団を曳《ひ》きずり出すと、力一杯それを抱《かか》えて釜場の方へ引返して来た。と、其処にも男湯の方を覗き込んでいる近所の若衆が二三人立っていた。
「みなさん、お客様はもう死んでしまったんですか?」
「助かるだろうというんですがね、まあ早く蒲団を持ってってやんなさい!」
 だが、女房はその扉口《とぐち》に近く、警官や刑事らしい人々が数人、ひどく難しい表情で突立っているのを認めると、何故か心怯《こころおび》えてゆく気にはなれなかった。
「すみません、ちょっと此処を開けて下さい!」
 女房は、傍の人に声をかけて、女湯の扉口を頤でしゃくってみせた。
 無言で開けられた扉口《とぐち》から一歩、女湯の方へ足を踏み入れた彼女は、又も思わず「吁ッ!」と叫んだ。
 その声にはっと反射的に此方《こちら》を向いた扉口《とぐち》の連中は、「おやッ!」と、ひとしく目を瞠《みは》った。
「お、女湯にも、大変です! 女湯にも人が、人が……」
 タイル張りの流し床に蒲団を放り出した女房が、こう叫んだのは、すべて計《はか》ることの出来ない瞬間のことである。
 男湯の方の出来事に注意を鳩《あつ》めていた警官連や他の男達は、どっと、その声に誘われて女湯の方へ雪崩《なだ》れ込んで来た。
 司法主任の赤羽直三《あかばねなおぞう》氏の蒼白《そうはく》な顔が、何時の間にか交《まじ》っていた。
「おお! こりゃ兇器《きょうき》で殺《や》られてる。みんな傍へ寄っちゃいかん! 大変だ。君、急いで手配をして見張って呉《く》れ給《たま》え!」
 彼は、さすがに昂奮の色を見せて誰に云うとなく叫んだ。と同時に、刑事らしい一人がバタバタと表口へ駆け去った。
 男湯と女湯との仕切板の上から、いくつも覗いていた顔は、一様にさっと筋ばった。見るに忍びず、といったそれらの顔色が示す事件は、いったい何であったのだろう?――
 女湯の白いタイル張りの床の上に、年の若い婦人の屍骸《しがい》が俯伏《うつぶし》に倒れていたのだ。いや、それよりも何よりも、一目見た程の人々の心に、最も強く映ったのは、その白いタイルの一面に、紅《べに》がらを溶かしような[#「溶かしような」はママ]生々《なまなま》しい血糊《ちのり》がみなぎっていたのだ。そして、怖ろしいまでの苦悶《くもん》の跡
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