っていなかったものは無かろう。給仕長の圭さんは、白い上着《うわぎ》を酒瓶《さけびん》の蔭にかくしてなにか整頓に夢中になっているように見せて置いて、然《しか》るのち、その蔭に鈴江をよびこむと、春ちゃんの機嫌をわるくするようなことを言っちゃならねぇぞと、薄気味《うすきみ》わるい表情と口調とで、訓戒《くんかい》を与えるのだった。面白いのは、訓戒を与えているのに、春ちゃんが気付くと、彼女は燕《つばめ》のように忽《たちま》ち圭さんの前にとんで行き、「余計なおせっかいだよ、すうちゃん、あっちへ行っといで……」と逆に圭さんに喰《く》ってかかる。圭さんはなにも言わないで、ニヤニヤ笑っているところで幕になるのが、毎度のことであった。その圭さんは、この幕切れには納《おさま》りかねるものと見え、それから舞台裏のコック部屋へ入りこんで、コックの吉公《きちこう》と無駄口を叩きはじめる。吉公というのは祖父江春吉《そふえはるきち》が本名で、本来なら春公とか何とか言うのがあたりまえなんだが、彼がこのカフェに来る前に既に春ちゃんと呼ばれる女給が居た関係上、春吉の方は春公とは言わないで、吉公とよばれていた。圭さんと吉公と
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