っていなかったものは無かろう。給仕長の圭さんは、白い上着《うわぎ》を酒瓶《さけびん》の蔭にかくしてなにか整頓に夢中になっているように見せて置いて、然《しか》るのち、その蔭に鈴江をよびこむと、春ちゃんの機嫌をわるくするようなことを言っちゃならねぇぞと、薄気味《うすきみ》わるい表情と口調とで、訓戒《くんかい》を与えるのだった。面白いのは、訓戒を与えているのに、春ちゃんが気付くと、彼女は燕《つばめ》のように忽《たちま》ち圭さんの前にとんで行き、「余計なおせっかいだよ、すうちゃん、あっちへ行っといで……」と逆に圭さんに喰《く》ってかかる。圭さんはなにも言わないで、ニヤニヤ笑っているところで幕になるのが、毎度のことであった。その圭さんは、この幕切れには納《おさま》りかねるものと見え、それから舞台裏のコック部屋へ入りこんで、コックの吉公《きちこう》と無駄口を叩きはじめる。吉公というのは祖父江春吉《そふえはるきち》が本名で、本来なら春公とか何とか言うのがあたりまえなんだが、彼がこのカフェに来る前に既に春ちゃんと呼ばれる女給が居た関係上、春吉の方は春公とは言わないで、吉公とよばれていた。圭さんと吉公とはまあ仲のいい方で、そして二人はカフェ・ネオンに於ける正《まさ》しく男子現業員の全部で、そして気の毒にも一階受持ちの女給八人、二階受持ちの女給七人、合計十五人の娘子軍《ろうしぐん》に対し、名実共に頭が上らなかったのである。
こうした風景が、カフェ・ネオンにおいて表面は案外平凡にくりかえされているうちに、突如として大惨劇《だいさんげき》の黒雲《くろくも》が、この家の上に舞い下《くだ》った。それは月も氷《こお》るという大寒《たいかん》が、ミシミシと音をたてて廂《ひさし》の上を渡ってゆく二月のはじめの夜中の出来ごとだった。カフェ・ネオンの三階の寝室で、春ちゃんが惨殺《ざんさつ》されてしまったのである。その寝室には春ちゃんの外《ほか》に四人の女給が、思い思いの方向に枕を置いて寝ていたのであるが、不思議なことに、彼女達は、春ちゃんの殺されたことを朝の十一時まで全く知らなかったのである。丁度《ちょうど》その時刻のすこし前に給仕長の圭さんが出勤して来て、階下のコック室《べや》に独寝《ひとりね》をしていた吉公を叩《たた》き起すと、その勢いで三階の娘子軍の寝室までかけ上ったところ、蒲団をまくられても寝ている方がましだという頑強な反抗に遭い、温和《おとな》しく階下へおりて彼女の代りに店の窓をあけたりしていると三十分も経ってから、この三階建てのビルディングが崩《くず》れるような音をたてて、四人の生残り女給が悲鳴と共に駈《か》け下《お》りて来た。その恰好は話にも絵にもならない。滑稽《こっけい》と悲惨とが隣り合わせに棲《す》んでいたことにはじめて気がつくような異常な光景だった。その四人の女給は鈴江、ふみ子、お千代、とし子でみんな古くから居る連中ばかりである。
三階へ行ってみると、表の窓際に床をとって寝ていた春江が、仰向《あおむ》けに白い胸を高く聳《そびや》かして死んでいた。その左の乳下には一本の短刀が垂直に突《つ》っ立《た》ち天《あま》の逆鉾《しゃちほこ》のような形に見えた。どす黒い血潮が胸半分に拡がりそれから腋《わき》の下へと流れ落ちているらしかった。右の乳房はどうしたものか、彼女の右の手で堅く握りしめていた。しかし全体の姿勢から言って、彼女は即死を遂げたものの如く、蒲団の中に行儀よく横たわっていた。彼女の死後、犯人は蒲団《ふとん》を頭の上からスポリと被《かぶ》せて行ったので、一層発見がおくれたものらしい。だからその朝一度その室を訪れた圭さんも気がつかなかったものと考えられる。
警視庁の活動は、はじまった。死体は即刻《そっこく》大学へ廻され、剖検《ぼうけん》された。結果としてその早暁《そうぎょう》二時と三時との間に殺害《さつがい》されたことが判明した。死因は刺殺《しさつ》で、刃物は美事《みごと》に心臓に達している。尚《なお》死の前後に暴行をうけた形跡が存在しているが、被害者の肢勢《しせい》から考えて死後に於て加えられたものとする方が理窟に合う。勿論《もちろん》、兇行原因は痴情関係《ちじょうかんけい》によることは明らかである。しかしながら殺人犯人の見当は中々はっきりついては来なかった。第一、証拠が全くのこされていない。短刀の柄《え》にも指紋はない。被害者は無抵抗で即死したような訳だから、犯人の着衣《ちゃくい》の一部をもぎとってもいない。死体の右手は右の乳房から離され、一応|掌《て》の中を改めてみたが、此処《ここ》にもなんの異常もなく、春ちゃんは単に乳房を握りしめていたというに過ぎないと観察された。圭さんと吉公は、厳重な取調べをうけたが、勿論ボロを出さずにすんだ。しか
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