を唇のところへ持って行き、黄色い液体を一口ぐっとのんで、後はしばらく唇と舌とをぴちゃぴちゃいわせた。
「……ふーん、どうもおかしい。燻精、お前のんでみろ」
「はい」
燻精が盃を唇のところへ持っていった。
「はい、のみました。実にこたえられない、いい酒ですなあ」
「そうかね。わしには、それほどに感じないが……」
「博士《せんせい》、それは先生のお身体の工合《ぐあい》ですよ。どこかどうかしていられるのです。糖分《とうぶん》が出ているとか、熱があるとかでしょう。私には、十分うまいですよ。やっぱりイギリス製のウィスキーだけありますねえ。これは英帝国《えいていこく》盛《さか》んなりし時代の生一本《きいっぽん》ですよ。間違いなしです」
「相当にうるさいね、君は」
「いや、酔払《よっぱら》ったんです。これもこの酒の芳醇《ほうじゅん》なる故《ゆえ》です。そこで先生、酒の実験はこのくらいにして、お約束ですから、かねがねお願いしてありました毒瓦斯研究の指導を早速《さっそく》お始めいただきたいのですが……」
「ふん、毒瓦斯研究の件か」
博士は何となく不機嫌《ふきげん》に、盃をがちゃんと台の上に置いて、
「では醤との契約に基き、正《まさ》しく履行するであろう。神経瓦斯について講義をする」
「あ、その神経瓦斯というものなら、既にドイツ軍がエベンエマエル要塞戦《ようさいせん》に使ったということを聞いています。それはもう陳腐《ちんぷ》な毒瓦斯で……」
「ドイツ軍が使ったという話のある神経瓦斯は、一時性《いちじせい》の神経麻痺瓦斯だ。それを嗅《か》いだベルギー兵は、恍惚《こうこつ》となって、しばらく何も彼もわからなくなった。もちろん、機関銃の引金《ひきがね》を引くことも忘れて、とろんとしておった。気がついたときには、傍《そば》にドイツ兵がいたというのだ。これは一時性の神経瓦斯だ。一時性では効力がうすい。これに対してわしが考えたのは、持久性《じきゅうせい》の神経瓦斯だ。これをちょっと嗅ぐと、まず短くても一年間は麻痺している。人によっては三年も五年もつづく。そうなると、その患者はもはや常人として責任ある任務をまかせて置けなくなる。どうだ、すごいだろう」
博士は、ようやく機嫌をとりかえした。
「それは、生理学からいうと、どんな作用をするのですか」
「つまり、脳細胞を電気分解し、その歪《ゆが》みを持続させるのじゃな」
「はあはあ、脳細胞を電解して歪みを持続させる……、それはおそろしいことだ。しかし電解させるというのなら、それは怪力線《かいりょくせん》の一種ではありませんか。毒瓦斯とはいえないでしょう」
燻精師長は、さすがに醤の信任があついだけに、するどく博士に突込《つっこ》む。
「怪力線の如きものでは、ぴりぴりちかちかと来て、相手に知れるから、よろしくない。もっと緩慢《かんまん》なる麻痺性のものでないといけぬ。わしの作った神経瓦斯は、全然当人に自覚《じかく》がないような性質のものだ。臭気《しゅうき》はない、色もなくて透明だ、もちろん味もない、刺戟《しげき》もない。もちろん極《ご》く緩慢な麻痺作用を起すものだから、はじめから刺戟を殺してあるのだ。しかもその後いつまでたっても当人は、瓦斯中毒になっているという自覚が起らないのだ。つまり常人《じょうにん》と殆んど変りない精神状態におかれてあって、しかも脳の或る部分が日と共に完全麻痺に陥《おちい》る。そうなると、たとえば、にこにこ笑って人と話をしていながら、手に握ったナイフで相手の心臓の真上《まうえ》をぐさりと刺すといったようなことを、一向|昂奮《こうふん》もせず周章《あわ》てもせず、平気でやる。まあ、そういう最も常人らしい狂人に変質させるのが、わしのいう持久性神経瓦斯の効果じゃ。どうじゃな。君もそういう方向のものを考えてみてはどうかな」
「す、すばらしいですなあ」
燻精師長は、盃を置いて、金博士に抱きついた。
「よせやい、気持のわるい」
と、金博士は燻精を突き放し、
「さあ、もうそれだけのヒントを与えてやれば、お前は醤のところへ帰って、早速《さっそく》発明研究を始めていいじゃろう。さあさあ、とくとく醤の陣営へ戻れ」
「はい。では、引揚げましょう。永々《ながなが》と御配慮《ごはいりょ》ありがとうございました」
「いやなに、たった十分間の講義だけじゃ。しかしあのウィスキーにペパミント百四十函は、授業料としては至極《しごく》やすいものじゃ」
「あれだけの夥《おびただ》しい洋酒を捧《ささ》げても、まだ先生の方が御損《ごそん》をなさいますか」
「それはそうじゃ。甚《はなは》だわしの方が損じゃ。帰ったら醤に、そういっていたと伝えてくれ。しかし神聖なるバーター・システムの誓《ちか》いの手前、こっちでもぬかりなく按配《あんばい
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