、そうはいかん」
「よろしい、バーター・システムで取引しよう。一体どんな毒瓦斯が入用《いりよう》か。フォスゲン、ピクリンサン、ジフェニルクロルアルシン、イペリット、カーボンモノキサイド、どれが欲《ほ》しいかね」
 下は人工灯《じんこうひ》の海、上は星月夜《ほしづきよ》、そして屋上は真暗《まっくら》だった。その真暗な屋上に立って、金博士は大きく両手をひろげる。
「そんなものは、どれも欲しくありません」
 醤は人一倍大きな頭を左右に振る。
「ほう、これじゃ気に入らんのか」
「博士《せんせい》。余《よ》――いや私の欲しいものは、そんな従来《じゅうらい》から知れている毒瓦斯ではありません。そんな毒瓦斯は、吸着剤《きゅうちゃくざい》の活性炭《かっせいたん》と中和剤の曹達石灰《ソーダーせっかい》とを通せば遮《さえぎ》られるし、ゴム衣《い》ゴム手袋ゴム靴で結構《けっこう》避《さ》けられます。そういう防毒手段のわかっている毒瓦斯は、今じゃどこへ持っていって撒《ま》いても、効目《ききめ》がありません。もっとよく効く、目新らしいものがいいですなあ」
 南京虫退治《ナンキンむしたいじ》の新剤《しんざい》を探しているようなことをいう。
 博士は、別段困った顔もせずに肯《うなず》き、
「わしのところには、どんなものでもあるよ。今お前のいった防毒面をどんどん通して、今までの防毒面じゃ役に立たない毒瓦斯があるがこれはどうじゃ」
「それはいいですなあ。しかしそれは○○○、○○○○○じゃないのですか」
「ほう、それを知っているか。この種のものはドイツと○○だけが持っているので、従来の防毒面ではまるで防ぐ力がない」
「しかし博士《せんせい》、それも駄目ですよ。なぜといって、他の国には無いかもしれないが、ドイツなどには、その超毒瓦斯《ちょうどくガス》を防ぐ仕掛をちゃんと持っている。そういう防ぐ手段のあるものは全然駄目です。私は、全然防ぐ用意のない毒瓦斯が欲しいのです。博士、ぜひお力をお貸しねがいたい」
 醤は、熱心を面《おもて》にあらわしていった。
「ほうほう、だいぶん熱心じゃが、それもあるにはある。しかしこれを教えるには、大分|高価《こうか》につくが、いいかね。まずウィスキーならダース入《いり》の函単位《はこたんい》でないと取引が出来ないが……」
「ダース函でも何でも提供しますとも」
「ほい、お前にも似合わん、えらく気が大きいじゃないかい」
「博士《せんせい》、わしの報復《ほうふく》成《な》るかどうかという瀬戸際《せとぎわ》なんです。あに真剣にならざるを得《え》んやです」
「そうか。なら、よろしい。ちょっとここに出してみようか」
「あ、待ってください。それはあぶない。ここで出されたんでは、私が死んでしまうじゃないですか。そればかりは遠慮します」
「なにをうろたえとるか。出すといっても、本当の毒瓦斯を出すとはいっておらん。こういう毒瓦斯があるという話をしようかという意味でいったのじゃ」
「ああ、そうでしたか。やれやれ安心しました。とにかく博士《せんせい》と来たら、興《きょう》が乗れば、敵と味方との区別なんかもう滅茶苦茶《めちゃくちゃ》で、科学の力を残酷《ざんこく》に発揮せられますからなあ。これまでに私は、博士のそのやり方で、ずいぶんにがい体験を経《へ》て来たもんです」
「醤よ、科学は残酷なものじゃよ。わしはそう思っとる。だから人間は出来るだけ早く科学を征服しなければならないのじゃ。ドイツに於ては――」
「博士、ドイツの話はもう沢山です。それで私のお願いは、ここに立っている腹心《ふくしん》の部下で、新たに毒瓦斯発明官に任じました燻精を一週間だけお預けいたしますから、その期間にこの男に対し、新毒瓦斯研究の方針とか企画とか設備とか経費とか、ありとあらゆることを吹きこんでいただきたい。私は、この男の帰還を待って、早速《さっそく》全世界|覆滅《ふくめつ》の毒瓦斯を発明する鬼と化《か》して、全力をあげ全財産を抛《な》げうって発明官と一緒にやるつもりです」
 醤は、満天の星を吸いこもうとするのではないかと思われるような大口をあいて、芝居気たっぷりに、途方もない重大決意を喚《わめ》き散らしたのであった。
「ええ加減にしろ。大言《たいげん》よりは、ウィスキーじゃ。ペパミントじゃ」
 金博士が、醤に負けないような大きな声を出し、怒《おこ》った蟷螂《かまきり》のような恰好《かっこう》で、拳固《げんこ》で天をつきあげた。


     3


 博士の例の地下研究所の一室において、白い実験衣《じっけんい》を着た金博士と発明官|燻精《くんせい》とが向きあっていた。
 二人は、手に手に盃《さかずき》を持っている。
 実験台の上には、いろんな形をした洋酒の壜が、所も狭く並んでいる。
 博士は盃
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