》しておいたと、あの醤めにいってくれ。さあ、引取るがよろしかろう」
「はいはい承知いたしました」
 燻精には、何やら腑におちかねる点もあったが、今が引揚《ひきあげ》の潮時《しおどき》だと思ったので、博士をいい加減《かげん》にあしらった。着換えをすますと彼は博士の前に出て恭々《うやうや》しく三拝九拝の礼を捧げ、踵《きびす》をかえして、部屋を出《い》でんとすれば、何思ったか金博士は、急にうしろから呼《よ》び留《と》めた。
「ああ、お帰りはこちらだ。この狭い廊下をずっといって、やがて突当ると、自動式の昇降機がある。それに乗って一階へ出なさい。すると至極《しごく》交通に便なところへ出る」
 と博士は、壁の釦《ボタン》を押し、壁に仕掛けてあった秘密の潜《くぐ》り戸を開いて、指した。
「ああそれはどうも。こっちに通路があるとは、全く存知《ぞんじ》ませんでした」
「こっちは特別の客だけしか通さないんだ。暫《しばら》く誰も通さなかったから、顔に蜘蛛《くも》の巣がかかるかもしれない。手で払いのけながら、そろそろ歩いていきたまえ」
「いや、御親切に、ありがとう」
「どういたしまして。はい、さようなら」
 潜り戸を入った燻精師長のうしろで、ぱたんと扉《ドア》のしまる音がした。と同時に、博士が扉の向うで、さめざめと啜《すす》り泣くような声を聞いたと思ったが……。


     4


 南国の孤島において、醤《しょう》委員長は、あいかわらずの裸身《はだか》で、事務を執《と》っていた。例の太い附《つ》け髭《ひげ》はもう見えない。
 そこへ燻精が戻ってきた。
「おお帰ってきたか。して、金博士から、すばらしいネタを引き出したか」
「はい、持久性《じきゅうせい》の神経瓦斯《しんけいガス》……」
「叱《し》ッ。これ、声が高い!」
 醤は、手の舞い足の踏むところを知らずといった喜び方であった。彼は、燻精の手をとらんばかりにして、彼を砂地《すなじ》の上に立つ古城《こじょう》へ連れていった。
「さあ、ここが毒瓦斯発明院だ。看板も、余《よ》が直々《じきじき》筆をふるって書いておいた」
 なるほど、あちこち崩《くず》れている城門に、毒瓦斯発明院の立て看板が懸《かか》っていた。
「発明場は、すっかり用意をしておいたつもりじゃ。余|自《みずか》ら案内をしよう」
 衛兵の敬礼をうけつつ、御両人は城内に入った。
「敵空軍の目をのがれるため、外観は出来るだけ荒《あ》れ果《は》てたままにしておいた。しかし、あの煙突だけは、仕方なく建てた」
 太い煙突が古城の上にぬっと首をつきだしている。
「あれは何ですか、あの煙突は」
「試作《しさく》の毒瓦斯が空高く飛び去るためだ」
「毒瓦斯は元来空気より重きをよしとするのでありまするぞ。煙突から飛び立つような軽い毒瓦斯てぇのはありません」
「いや、その重い毒瓦斯の逃げ路も作っておいた。向うに見える太い鉄管《てっかん》は、海面《かいめん》すれすれまで下りている。重い毒瓦斯は、あの方へ排気《はいき》するんだ。風下はベンガル湾《わん》だ。海亀《うみがめ》とインド鰐《わに》とが、ちかごろ身体の調子がへんだわいといいだすかもしれんが……」
 醤が毒瓦斯発明院に対して肩の入れ方は、非常なものだった。燻精は、彼の信頼に十分|報《むく》いることが出来ようと自信たっぷりだった。
 発明院長に燻精が就任《しゅうにん》して、百三十五名の発明官が、その下に仕事を始めることになった。まず設備を作るのに、三ヶ月かかった。それから燻精の講義が三ヶ月つづいた。
 燻精の講義は全くすばらしかった。ときどき傍聴《ぼうちょう》に来る醤買石《しょうかいせき》は、その都度、頤《あご》の先をつねって恐悦《きょうえつ》した。
「ふふふ、洋酒百四十函が、こんなにすばらしい効目《ききめ》があろうとは、すこし気の毒だったなあ」
 燻精の指導ぶりは、目のさめるようであった。
 原動機《げんどうき》は廻転し、ベルトはふるえ、軸《シャフト》は油をなめまわし、攪拌機《かくはんき》はかきまわし、加熱炉《かねつろ》は赤く焔《も》え、湯気《ゆげ》は白く噴き出し、えらい騒ぎが毎日のように続いた。
 そうなると、醤は落ちついていられなくなって、毎日のようにここに足を運んだ。
「おい燻精。まだ例の神経瓦斯は出来ないか。出来たら、余に早く見せてくれ」
「醤委員長よ。今度こそすばらしいものが出来ますぞ。瓦斯密度《ガスみつど》が一・六〇〇〇四です。理想的な密度です。おどろいたでしょう」
「一・六〇〇〇四? よくわからないねえ」
「精密なること、金博士の製品を凌駕《りょうが》しています。かかる精密なる毒瓦斯は……」
「精密よりも、効目の方が大切だぞ」
「いや、この精密度なくして、あの忍耐力のつよい敵兵を斃《たお》すことは出
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