われわれを、再び地上に出していただいて、もう一ぺんだけ、陽《ひ》の光や、鳥の飛んでいるところや、それから、酒壜《さかびん》やビフテキまで見られますように、どうぞどうぞお助けください。アーメン」
 二人は、黄いろい幽霊を、神様あつかいにまで、してしまった。
「ふん、そういう気なら、願いは、聞き届けてやる。きっと、今いったことを、忘れるなよ」
「は、決して忘れませぬ。アーメン」
 どこまでも、黄いろい幽霊は、神様あつかいであった。


   快男児|沖島《おきしま》


 この黄いろい幽霊とは、そも、何者であろうか。
 これは、彼の自らいうように、幽霊ではない。そうかといって、アーメンと、あがめたたえられているように、神様の化身でもない。
 沖島速夫《おきしまはやお》――それが、この黄いろい幽霊の本名だった。
 その名で分るとおり、彼は日本人であったのである。そのむかし、彼は、苦学生であって、アメリカで皿洗いをしていた。しかし、だんだん世界の情勢がかわって来て、それまでは、それほどでもなかったアメリカ人が、さかんに日本いじめをやりだした。通商条約を、とつぜんやぶったり、急に石油や器械を売らなくなったり、大艦隊を日本に一等近いハワイに集めたりして、さかんにおどしにかかった。アメリカは、すっかり日本いじめに夢中になってしまった形である。そんなことが、沖島速夫を、すっかり怒らせてしまったのだ。彼は、だんだん、アメリカ人のために皿なんか洗ってやるものかと思った。そして、腕は細いが、ひとつ出来るだけの智慧《ちえ》をはたらかして、アメリカ人の荒ぎもをうばってやろうと決心したのだ。
 そこで彼は、だれにも、それを告げず、職場をはなれた。今まで働いて、一生けんめいためた金をもって、彼はしばらく町々をうろついたが、或るとき、地底戦車が秘密に南極へいくことを、かぎつけたのであった。これはいいことをきいたと、彼は思った。そこで俄《にわ》かに決心して、或る夜ひそかに、苦心に苦心をかさねて、ついに地底戦車の中に、もぐりこんだのであった。そのとき、一|挺《ちょう》の軽機関銃と、大きな袋に入った林檎とを、その中へかつぎ込んだ。
 戦車の中は、案外ひろびろとしていたから、彼は、べつに息もつまらないで、暮していることができた。そのうちに、例の遭難事件となり、パイ軍曹とピート一等兵とが、とびこんできたのである。そして、とんださわぎが、この戦車の中ではじまることとなったのである。
 沖島速夫は、もちろん、生命をなげ出していた。別に、この地底戦車をスパイするつもりでやったことではなく、ただ、太平洋の彼方《かなた》で、真の日本人を知らず、ひとりよがりでいるアメリカ人たちに、日本人の意気を見せて、ちょっとおどろかせてやりたかっただけのことである。
 南極地方へ上陸したのち、地底戦車の中からおどり出して、
「アメリカさん。ばあーッ」
 と、やりたいだけのことであった。ところが、ひょんなことから、その戦車をつんでいた船が沈没してしまったため、たいへんな冒険をやるようなこととなった。
 助かるか助からないか、沖島速夫自身も、全く知らない。しかし彼は、むかしから、いかなるときにも、おちつきを失わない男だったから、生命なんかのことで、取り越し苦労をするのは馬鹿者のすることだと決め、自分は生命を神様にでもあずけたつもりで、そんな心配はごめんこうむって、ただ斃《たお》れてのちやむの精神で、ここまでやって来たのである。
 ところが、パイ軍曹もピート一等兵も、がらは大きいし、いばることも知っているが、今地底戦車が南極の海中に沈んでいると思うと、からいくじがなくなって、とうとうここで、沖島速夫を神様のようにあがめ、そして神様としておすがりするようなことになってしまった。心の弱いものは、いつでも、このように負けてしまう。
(絶対に反抗しません!)
 こんどこそ、いよいよ本気で、二人は黄いろい幽霊に降参してしまったのである。
 速夫は、勝者だ。
 だが、こうなると、出来るなら、二人を助けてやりたいと思った。そして、なにげなく彼は、さかさまに下っている深度計に眼をやったが、
「おやッ!」
 とばかり、心の中でおどろいた。――深度計は、零《れい》をさしていたのである。


   天井の怪音


 速夫は、始め、深度計が、こわれてしまったのかと思った。
 しかしよく他の器械を見てみると、そうでもないらしい。
 しからば、深度計が零をさしているのは、この地底戦車が、逆さにひっくりかえっているせいであろうかとも思った。だが、それもちがう。この深度計は逆さにひっくりかえろうが、針が他を指《さ》すような構造のものではない。
 すると、正しく深度は零なのである!
(深度が零というと、この戦車の下に、水がないということであるが――それでいいのかな)
 達夫が、ふしぎそうに、深度計を見ているものだから、パイ軍曹もピート一等兵も、そばへよってきて、ともに深度計のうえをながめるのであった。そして、やはりふしぎだという顔をした。
「どうだね、パイ軍曹にピート一等兵。この深度零と出ているのを、どう考えるか」
 と、速夫はきいた。
「さあ……」
「計器に水が入ったかナ」
 二人の答は、はなはだ、なっていない。
「分らないなら、いってやろう。この地底戦車は、地上に出ているんだ」
 と、速夫は、ずばりといった。
「えっ。地上に出ておりますか、あの、この戦車が……」
 ピート一等兵が、眼を丸くした。
「ばかばかしい、深海の底におちこんでいたものが、いつの間にか地上にあがっているなんて、そんなことがあってたまるか」
 と、パイ軍曹は、ピート一等兵を叱りつけた。そのとき、速夫がいった。
「そうだ。われわれの感じとしては、まだまだ深海の底にいるような気がする。しかし、この深度計は、たしかにこわれていないのだから、この上は、深度計が示していることを信ずるのが正しい。わけはわからないが、たしかに、この戦車は、地上に出ているのだ」
「そんなばかばかしい夢みたいなことが……」
「全く、全くだ!」
 二人は、どっちも、速夫のことばを信用しない。
 そこで速夫は、
「じゃ、僕は、この地底戦車の扉をあけて、外へ出てみるから……」
「ああ待ってもらいましょう。扉をあけりゃ、そこから水がどっと入ってきて、われわれはたちまちお陀仏《だぶつ》だ」
「じゃあ、助かりたくないのか」
「扉をあけりゃ、とたんに、死んでしまいますよ。助かるどころの話じゃありませんよ。これは、わしの永年の経験からいうのだ」
 と、パイ軍曹は、なかなか自信あり気である。
 意見は、こうして、二つに分れた。
 一体、どっちが本当か?
 そのときである。不意に、この戦車が、かたんと揺れた。戦車の中は地震のようである。
 ところが、ふしぎにも、戦車は、ますます揺れだし、そしてますます傾くのであった。三名の者は、とても立っていられなかった。てんでに、器械や椅子につかまって、こらえている。まさか、地震でもなかろうに。
 そのうちに、急に、動揺がとまった。
「おお、どうした!」
「おや、いつの間にか、天井と床とが、あべこべになって、戦車は、とうとうもとどおりになったぞ!」
 戦車は、半廻転したのだった。
 トン、トン、トン。
 妙な音が、そのとき天井の方から、聞えてきた。
「あれは、何の音!」
 と、ピート一等兵は、また新たな恐怖の色をうかべた。
 トン、トン、トン。
 ふしぎな音は、しきりに、天井の方から聞えるのであった。


   ピートの失敗


「パイ軍曹どの。自分は、もう死んだ方がましです。このうえ、心臓がどきどきしては、心臓|麻痺《まひ》になってしまいます」
 これは、大男のピート一等兵が、からだに似合わぬ悲鳴である。
「こら、ピート一等兵。そんな弱音をはいちゃ、幽霊指揮官どのに、笑われるじゃないか」
「でも、自分はもう、このとおり、からだ中から、脂《あぶら》がぬけちまって、もうあと、いくらももちません」
「え、からだの脂がぬけたって」
「はい。うそじゃありません。このとおり、ズボンの下から、たらたら脂が、たれてくるのです」
「そうか。本当なら、こいつは一命にかかわるぞ。どれ、見てやろう」
 と、パイ軍曹は、ピート一等兵のズボンの下をまくって、しさいに見た。
「おや、こいつは、ひどく、たれている。ふん、かわいそうだな。これじゃ、もう、助かるまい」
「軍曹どの、自分は、もういけませんか。もう、だめでありますか」
「もう、いかんぞ。どうも、くさい。いやにくさい。きさまは、からだが大きいせいか、鯨《くじら》の油みたいな脂を出しよる」
 と、パイ軍曹が、鼻をつまんだ。
「え、鯨の油みたいなにおいがしますか、はてな?」
 ピート一等兵は、そういったかと思うとにわかに、あわてて、自分の毛皮の服の胸をあけて、中へ手をつっこんだ。
「うわーッ、いけねえや」
「おい、ピート。何ということをする……胸の中が、どうかしたのか」
「あははは。大失敗でさ。わけをいうと軍曹どのに叱られ、そしてここにおいでの幽霊どのに笑われてしまいます」
「ははあ、きさま、また欲ばったことをやったな。服を開いて、中をみせろ」
「はい、どうも弱りました」
 ピート一等兵は、悄気《しょげ》ている。
「やっぱり、そうだ。きさま、鯨油《げいゆ》の入っている缶を、盗んでいたんだな。どうするつもりか、鯨油を、懐中に入れて」
「どうも、弱りました。まさかのときは、これでも、腹の足《た》しになると思ったものですから……」
「なに」
「つまり、鯨の油ですから、こいつは、魚の脂です」
「鯨は、魚じゃない」
「そうでしたな。元へ! 鯨は、けだものの脂ですから、石油とはちがって、食べる――いや、飲める理屈であります」
「あはァ、それで、飲むつもりで、かくしていたのか」
「はい。ところが、あのとおり、戦車の中で、あっちへ、ごろごろ、こっちへごろごろごろんとやっているうちに、缶がこわれて、鯨油がズボンの中へ、どろどろと流れだして、こ、このていたらく……」
「なんだ、そんなことか。お前は、幸運じゃ」
「軍曹どの。からかっちゃ、いかんです」
「からかっちゃおらん。もしもその脂がお前のからだから流れ出した脂だったら、今頃はどうなっていたと思う」
「へい。どうなっていましたかしら」
「わかっているじゃないか。そんなに脂がぬけ出しちゃ、お前は今頃は冷くなって、死んでいたろう」
「冗談じゃありませんよ。はっくしょん」
 さっきから、傍《かたわら》で、あきれ顔で、二人の話を聞いていた沖島速夫が、
「ピート一等兵。早く、前をしめろ。風邪《かぜ》をひくじゃないか」
「へーい、指揮官どの」


   氷原


 呑気《のんき》な二人のアメリカ兵には、沖島も、すっかり呆《あき》れてしまった。
 そのうちに、一旦《いったん》とまっていた戦車の天井の、とーん、とーんという音が、また聞えだした。
 とーん、とーん。
「あ、また始まった」
 ととーん、とーん。
「おや、あれは、モールス符号だ」
 パイ軍曹が、急に目をかがやかせた。
「おや、開けろといっている。ふん、生存者はないか。誰か、上から呼んでいるんだ。おれたちは、助かるかもしれん」
 ピート一等兵は、おどりあがった。
「気をつけッ!」
 沖島速夫が、大きなこえで、どなった。
 二人のアメリカ兵はびっくりして、直立不動の姿勢をとった。
「だから、さっきから、僕は、この戦車の扉を開けろといっているんだ。さあ、早く開けろ」
「開けても、大丈夫かなあ」
「大丈夫だ。水の中じゃない。うそだと思ったら、中から信号をして、外には水があるかないか、たずねてみろ」
 沖島は、深度計をみたとき、この地底戦車のまわりが、どんな状態にあるかを、察していた。そこへ外から信号があった。彼は、そのとき、或る覚悟をした。そして二人のアメリカ兵が、鯨油のことで、いい争っている間に、持っていた機銃を、防寒服の中にしまいこんだり、戦車をうごかすのに、ぜひ
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