方へのばしたが最後、せっかくの林檎が、しゃぼん玉に手をつけたように、つと、消えてしまうのではなかろうか。幻《まぼろし》にしても、林檎の形が、見えている間はたのしい。幻が消えてしまえば、どんなに、つまらないだろう。それを考えると、ピート一等兵は、手をのばすこともならず、からだを化石のようにして、足許へ転がってきたその怪しい林檎の形を、見まもった。
 だが、その林檎の色は、あまりにうつくしかった。まっ赤なつやつやした色が、食欲をそそりたてずには、おかなかった。そして、あの甘ずっぱい林檎の匂いまでが、つーんと彼の鼻をつきさしたように思ったのである。
 ついに、ピート一等兵は、幻の林檎の誘惑に敗けてしまった。彼はぶるぶるふるえながら、手をのばした。そして、思いきって、林檎をつかんだ。
「おやッ」
 大きなおどろきのこえが、彼の口をついてとびだした。
「あっ、ほんとの林檎だ!」
 彼は、その場に、おどりあがった。林檎を頭の上に押しいただきながら……。そして、ひょっとしたら、自分は、とうとう気がへんになってしまったのかもしれないと、考えながら……。
「おい、どうした、ピート一等兵。しっかりしろ。気をしずめなくちゃ……」
 パイ軍曹はだしぬけにピートが、さわぎだしたもので、これまた、心臓が破裂したようなおどろき方だった。
「軍曹どの。奇蹟《きせき》です。大奇蹟です」
「なんじゃ、奇蹟とは」
「あり得ないことが起ったのです。ほら、この林檎です。自分の足許へ、ころころと転がってきました。この林檎がですよ」
「あっ。林檎だ! こっちへ、よこせ」
「だめです。自分が見つけたんです」
「一寸《ちょっと》見せろ。この林檎は、どこにあったのか」
「軍曹どの、半分ずつ食べることにしましょう。自分にも、残してください」
「食べるのは後まわしだ。おいピート、この林檎は、喰《く》いかけだぞ。お前、早い所、やったな」
「いいえ、うそです。自分は、まだ一口も、やりません」
「それは、ほんとか。ほら見ろ。ここのところに歯型がついている。お前が、かじらなければ、誰が、ここのところを、かじったんだ」
「さあ? とにかく、まだ自分は、決してかじりません」
「じゃあ、いよいよこれはへんだぞ。お前がかじらず、おれがかじらないとすれば、この生々《なまなま》しい林檎のうえについている歯型は、一体、だれがつけたんだろう?」
 二人は、ぞーっとして、互いに顔を見合せた。そして、どっちからともなく、かすかにうなずいた。次の瞬間に、二人は、ひしと寄り合って互いに抱きついていた。
「わ、幽霊が、あの林檎をかじったんだ」
「ああ、幽霊の歯型! やっぱり、この戦車の中にゃ、ゆ、幽霊がいるんだ!」
 歯型のついた怪しい林檎は、二人の勇士を、ふるえあがらせた。一体、どうしたわけだろう?


   林檎の幽霊


 ほんとに、幽霊が、この地底戦車の中に、巣くっているのだろうか。
 鼻の下に、鉛筆ですじをひいたようなひげを生やしているパイ軍曹は、こんな新しい戦車の中に、幽霊などがでてたまるものかと、さっき大男のピート一等兵を叱りつけたのであるが、今や、彼の自信は、嵐にあった帆船のように、ひどくかたむきだした。
「おい、ピート一等兵」
「へーい」
 二人は、抱き合ったまま、小さい声で、話をはじめた。
「お前、これから、戦車の隅から隅までさがして、幽霊がいないかどうか、たしかめてみろ」
「そ、そんな役まわりは、ごめんです」
「なに、お前は、上官の命令に背《そむ》くのか」
「いえ、そんな精神は、ないであります。ですが、軍曹どの。自分は、生きている敵兵は、たとえ百万人が押しかけてこようと、尻ごみはしないのですが、死んでいる幽霊は、たとえ一人でも、どうも虫がすきませんであります」
「お前は、あきれた臆病者だ。そんな弱虫とは知らず、おれはこれまで、お前にずいぶん眼をかけてやった。アイスクリームが、一人に一個ずつしか配給されないときでも、おれはひそかに、お前には二つ食べさせてやったのだ。あああ損をした」
 パイ軍曹は、とんだところで、ピート一等兵をこきおろしたが「アイスクリーム」といったとき、彼は、もうこの戦車の中ではどんなことをしたって手に入れることのできないアイスクリームであることを考えて、しらずしらずに大きな吐息《といき》が出た。
 ピート一等兵は、軍曹から、とめどもなく叱られながら、足許にころがっている林檎を、じろじろと、横目でながめて、生《なま》つばをのみこんでいた。
 パイ軍曹は、むずかしいかおをして、広くもない戦車の中を、じろじろとみまわした。幽霊が、かくれているとすれば、どこにいるのだろうか。それとも、幽霊というやつは、ふだんは、人間の目には見えないのかもしれないから、案外、自分の目の前に立っているのかもしれない。じっと耳をすましていたら、幽霊の吐息がきこえるのではないか、などと、いろいろと気をくばって、幽霊の発見に努力をしたのであった。
 だが、幽霊のいるらしい気配は、一向《いっこう》にしなかった。
(どうも、へんだ。おれは、どう考えても、こんな新しい戦車の中に、幽霊がすんでいるとは思わない)
 パイ軍曹は、そのとき、こんなことを思った。
(さっき、ピートと二人で、この戦車の中へ、とびこむとき、船員か戦友かが、ちょうど食べかけていた林檎を、二人のどっちかが、靴のさきでけとばして、この戦車の中へ、けこんだのではあるまいか。すると、あの林檎には、歯型のほかに、靴でけとばしたあとが、ついているかもしれない。もう一度、あの林檎をとりあげて、よくしらべてみよう!)
 林檎と幽霊の関係に、パイ軍曹の悩みは、ひとかたではなかった。
 パイ軍曹は、きょろきょろと、あたりを、みまわした。
「はて、林檎は、どこへおいたかな」
 林檎が、見あたらない。
「おい、ピート一等兵。さっきの林檎を、もう一度、しらべたい。林檎は、どこにある」
「さあ、どこへいきましたかしら……」
 ピートは、ふしぎそうにいった。
「おい、ピート。そっちへ、離れてみよ。猿の子供みたいに、いつまでも、おれに抱きついていても仕方がないじゃないか。お前が、あの林檎を、尻の下に、しいているのではないか。早く、のけ!」
「はい、今、のきます」
 ピート一等兵は、立ち上った。
 二人は林檎をさがした。
 ところが、林檎は、どこにもなかった。軍曹は、ピート一等兵のポケットの中までさがしたが、林檎はなかった。もちろん、自分のポケットにもなかった。
「どうも、へんだな。今、そこのへんにあった林檎が、どうして、なくなったんだろう。これは、いよいよふしぎだ」
 パイ軍曹の顔が、また一だんと、青くなった。
 すると、ピート一等兵が、手で自分の口にふたをしながら、
「あっ、わかりました。軍曹どの、林檎が見えなくなったわけが、わかりました」
「お前に、わかった? どういうわけか」
「つまり、あの林檎も、幽霊だったんです。林檎の幽霊だから、とつぜん、林檎の姿が、かきけすように、見えなくなってしまったというわけです」
「なるほど、林檎の幽霊か、そういうことが、あるかもしれないなあ。ああ気持がわるい!」
「ああ軍曹どの。林檎の幽霊! ああ、おそろしいですなあ」
 といいながら、ピート一等兵は、胃袋の中からこみあげてくるげっぷ[#「げっぷ」に傍点]を、手でおさえた。林檎くさいそのげっぷ[#「げっぷ」に傍点]を……。


   早業《はやわざ》


 パイ軍曹が、林檎と幽霊の関係について、おもいわずらっている間にピート一等兵は、早いところ、その林檎をしっけいして、皮もたねも、みんな自分の胃袋へおくりこんでしまったのだった。
 すばらしい味だった。彼は、生れてこの方、こんなうまいものを、たべたことがないと思った。胃袋が、いつまでも、生き物のように、うごめいているのが、はっきりわかった。
 おかげで、ピート一等兵は、たいへん元気づいた。もう、幽霊もなんにも、なかった。
 ピート一等兵の元気にひきかえ、パイ軍曹の方は、とつぜん姿を消した林檎の幽霊のことで二重の恐ろしさを、ひしひしと感じ、ますます青くなって、ちぢかんだ。南極の凍りついた海底ふかくおちこんだうえに、人間の幽霊のほかに、林檎の幽霊にまで、くるしめられるとは、なんという情けないことだろう。軍曹は、しゃがんだまま、頭を抱えて、考えこんだ。
 それを見ると、ピート一等兵は、ちょっと気の毒やら、おかしいやらであった。だが、笑うわけにも、いかなかった。
 そこで、彼は、軍曹にこえをかけた。
「軍曹どの、このままで、じっとしていては、われわれは、死ぬよりほかありません。ですから、思い切って、この地底戦車をうごかして、ニューヨークまで、かえっては、どうでありますか」
 パイ軍曹は、顔をあげた。そして、あきれがおで、
「ばか。ニューヨークまで、こんな地底戦車にのってかえれるものか」
「しかし、軍曹どの。われわれ軍人は、常にそれくらいの元気は、もっていなければならぬと思うのであります」
「それは、わかっとる。しかし、ニューヨークまでかえるには、何ヶ月かかるかわからない。その間重油をどうするんだ。また、われわれは、なにを食べて、その何ヶ月かを生きていればいいんだ」
 パイ軍曹は、こうなると、ますますひかんしていった。
「なァに、軍曹どの、なにか考えれば、どうにかなりますよ」
 と、ピート一等兵は、ますます元気なこえでいった。くいかけの林檎一個が、たいへんな力を、彼にあたえたのだ。
「どうかなると、口でいうだけでは、どうもならん」
「だめです。軍曹どのは、やってみないうちから、もういけないとおもっていられるから、だめなんです。どうせ、死ぬときは死ぬのですから、じっとしていて死ぬよりも、軍人らしく、この地底戦車で突進しながら、たおれた方が、軍人らしい最期《さいご》ではありませんか」
「なるほど、なあ」
 パイ軍曹は、大きくうなずきながら、立ち上った。
「お前みたいな臆病者に、こっちが、はげまされようとは考えなかった。お前は、ほんとは、臆病者じゃなかったのかなあ」
 パイ軍曹は、感心していった。そして、さっと、しせいを正しくすると、
「集まれ!」
 と、号令をかけた。
 ピート一等兵は、とつぜん、集まれをかけられて、びっくりしたが、すぐさま、かけ足をして、パイ軍曹の前に、不動のしせいをとった。
「番号!」
 パイ軍曹は、大まじ目でいった。
「一チ!」
 ピート一等兵は、きまりがわるくなった。二イ三ンとひとりで、もっとさきをいいたいくらいであった。
「異状ないか」
「はい、全員異状、ありません」
 全員といっても、たった一人である。隊長をあわせても、たった二人だ。
「命令。地底戦車兵第……ええと、第百一連隊第二大隊第三中隊第四小隊のパイ分隊は、只今より出動する」
 と、べら棒《ぼう》に大きな数をいって、
「戦車長は、パイ軍曹。操縦員は、ピート一等兵。第一番砲手はピート一等兵。第二番砲手はパイ軍曹。通信兵はパイ軍曹。機関員はパイ軍曹……」
 どこまでいっても、要するに、たった二人であった。たいへん手が足《た》りないが、どうも仕方がない。
「全員部署につけ!」
 そこでパイ軍曹は、一番高い戦車長席につき、ピート一等兵は、前の方の、操縦席についた。
「部署につきました」
「よし。では、出動! 針路《しんろ》、真南! 傾斜をなおしつつ、前進」


   地中前進


 ピート一等兵が、エンジンをかけた。車内は、たちまち、轟々《ごうごう》たる音響にとざされた。レバーをたおすと、地底戦車は、ごとんごとんと、前進をはじめたのであった。
 パイ軍曹は、配電盤を睨《にら》んだり、戦車のゆく方を考えたり、なかなかいそがしかった。
「おい、ピート。エンジンの調子は、わるくないようだな」
 軍曹は、送話器をひきよせて、いった。ピート一等兵の耳にくくりつけた高音受話器が、軍曹のこえのとおりに鳴った。
「エンジンの調子は、異状ありません」
 ピート一等兵は、なかなか操
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