ネルスキーは、宰相になりすまして、太い口髭をひっぱった。
「ああ宰相閣下。それはとんでもない御思い違いであります。私は石炭を無駄使いして居りませぬ。いや本当です。只今ペチカには一塊《いっかい》の石炭も燃えては居りませぬ。嘘だとお思いなら、こちらへ来て御覧下さるように……」
「なにを、うまいことを云って、わしをごま化そうとしても、なかなかごま化されないぞ。たとい宰相閣下を――いや、わしは宰相閣下だが、ごま化されるものか。ペチカに一塊の石炭も入っていないで、こんなにぽかぽかするものかい。わしの額からは、ぽたぽたと汗の玉が垂《た》れてくるわ」
「ああ宰相閣下。そうお思いになるのは無理ではありません。今日は外気の気温の方が室内よりも高いのでありますぞ。窓をお開きになってみて下さい。途方もないいい陽気です」
「外はいい陽気?」
 ネルスキーは、このとき初めて、或ることに気がついた。夙《と》くに気がつくべかりしことを、今になってやっと気がついたのであった。彼は思わず指の腹をこすって、ぱちんという音をたて、
「あっ、そうか。いや、早いものじゃ。燻製の効果が、こうも早く出てくるとは思わなかった。いや偉大なものじゃ、豪《えら》いものじゃ」
「これはこれは過分なる御褒《おほ》めの言葉で恐れ入ります。本員といたしましては……」
「莫迦《ばか》、今のはお前を褒めたのではない。はきちがえるな」
「はあ。それは御卑怯《ごひきょう》というものです。私と電話でお話になっていて、御褒めになったのですから、これはどうしても私の取得《しゅとく》です。そうではありませんか、宰相閣下」
 その返事の代りに電話機の掛けられたがちゃりという音が、ペチカ委員の耳に入ったばかりであった。彼は大きな白熊を取り逃がしたように思ったが、しかしもう少しネルスキーの気のつき方が遅ければ、既にゲペウの手に懸《かか》って始末されていたかもしれないのであった。


     5


 ネルスキーは、廊下を飛ぶように駈けて、早速《さっそく》宰相室へいった。それは、今シベリアに不定期の春が来たことを告げて、香港《ホンコン》会談における彼の功績を宰相に認識せしめんがためであった。
 彼が宰相室の前までいったとき、その入口で、沢山の宮廷委員がモートルを担《かつ》いだり、蛇管《だかん》を持ったり、電纜《でんらん》を曳《ひ》きずったりして
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