いない」
 私はもう坐《すわ》っても立っても居られなかった。それはミチ子をめぐる彼と私との暗闘《あんとう》が最後的場面へ抛《ほう》り出されたのだ。断然《だんぜん》たる敵意であった。砲弾のような悪意だった。
「はッはッはッ」と辻永は軽く笑った。「まア落着いたがいいだろう。あの酒は僕が飲ませたわけではなく、もともと君の前にミチ子が持ってきたのを、君がとりあげて飲み乾しただけのものじゃないか。僕がなにを知るものかネ。唯《ただ》、地獄街道の道案内を聞かせてやっただけじゃないか。最後の注意をするが、もうソロソロ催《もよお》してくるから、助かりたかったら……」
 と、そこまで云ったとき、辻永は襲《おそ》われた様《よう》に声を嚥《の》んでガッと眼を剥《む》いた。そして椅子からピンと立ち上ったが、痛そうな顔をして腰をかがめて下腹をおさえ、急いで手洗室の方へ駈け出した。
「戸をあけてくれ。あけてくれ」
「貴方《あなた》、ちょっとお待ちなすって」とその日は月曜だというのに珍らしくいつものように出ていた主人が駭《おどろ》いて駈けつけた。「唯今お客さまがお使いになっていますから、しばらく、しばらくお待ち下さい。しばらくどうぞ」
「ぎゃーッ」主人に遮《さえぎ》られて、辻永は獣《けもの》のような声をあげた。これがあの沈着な辻永とはどうして思えよう。彼はクルリとふりむくと、今度は表戸《おもてど》を蹴破《けやぶ》るようにしてサッと外へ飛び出した。私には何もかも判った。実に辻永は例の妖酒《ようしゅ》を自分が飲んでしまったのだ。
「オイ待て、辻永」私も続いて戸外にとび出した。もう十二時に間もない街はヒッソリと静かだった。辻永の姿はと見ると、向うの軒灯《けんとう》の下に転《ころ》がるように駈けている黒い影がそうであろうと思われた。私は彼の名を呼びながら追い駈けたがとても追いつけなかった。
 彼の話にある川っぷちを方々探したが見えない。桜ン坊も見当らない。探し疲れて橋の欄干《らんかん》に身を凭《もた》せかけた。もう時間はかなり経っているのにと心配していると、そこへ一台の自動車が風のように現われて、サッと通りすぎた。
「呀《あ》ッ! 辻永ッ」
 私は車内に、たしかに辻永の姿を認めた。彼の傍《かたわら》には確かにあの桜ン坊というガールがピッタリと倚《よ》りそっていた。私は路の真中まで駈け出したが、もう間に合わ
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