。すると裁判医は、歩きながら首をかるく左右に振った。
「お気の毒さま。死因ハ目下不明ナリ。頸部からの出血の量が少いのが気に入らない……。死体はわしの仕事場へ送っておいて貰いましょう。解剖は午後四時から始まり、五時には終る」
 老人は、ぶっきら棒にいった。死因は目下不明なり、頸部からの出血の量が少いのが気に入らない――との言葉は、俄然一同に大きな衝動を与えたらしく、そこかしこで私語が起った。多くはこんな明白な盲管銃創を認めるのを躊躇する古堀老人の頑迷を非難する声であった。
 そんなことは意に介しないらしく、古堀裁判医は洗面器の方に歩みよった。
「やあ、これはすまん」
 老人がいった。一人の長身の男が、古堀医師のために、洗面器のあるところの入口に下っている半開きのカーテンを押し開いて、老人が通りやすいようにしてやったからであった。その男は余人ならず、帆村荘六であった。
 この帆村荘六は、さっき古堀医師が首を左右に振ったときに、それと共振するように首を左右に振った唯一の在室者だった。
 古堀は、洗面器の握り栓をひねって、景気よく水を出した。そしてゴム手袋をぬいで、持参の小壜から石鹸水らしいも
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