もう嗅《か》ぎなれた妖気《ようき》麝香《じゃこう》のかおりが胸を縛るかのように流れてきた。次に耳元に生温《なまあたたか》い呼吸《いき》づかいがあった。
「井東さん。こんばんワ」
「こんばんは、劉《りゅう》夫人《ふじん》」
「劉夫人と仰有《おっしゃ》らないで……。いじわるサン。絹子《きぬこ》と、なぜ呼んでくださらないの!」
「劉夫人」僕は、顔をはじめて曲げて彼女の桜桃《さくらんぼ》のように上気した、まんまるな顔を一瞥《いちべつ》した。「僕は、あなたの餌食《えじき》になるには、あまりに骨ばっています。もっと若くて美しい騎士《ナイト》たちが沢山居ますから、その方を探してごらんになってはどうですか」
「貴方は、すこしも妾《わたし》の気持を察して下さらない。貴方と同じ国に生まれたこの妾の気持がどうして貴方に汲《く》んでもらえないのでしょうかしら。こんな遠い異国に来て、毎日|泪《なみだ》で暮している妾を、可哀想だと思っては下さらないのですか。妾は恥を忍んでまで、祖国のためになることをしようと思っているのですのに」
「そいつは言わないのがいいでしょう。情痴《じょうち》の世界に、祖国も、名誉もあります
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