はない。僕達の特務《とくむ》も、このたびが仕納《しおさ》めだと思うと、湧きあがってくる感傷《かんしょう》をどうすることも出来ないのであろう。
 だが僕は、呼吸《いき》の通《かよ》っている間は、常に大きな希望を持っているのだ。敵が青龍刀《せいりゅうとう》を僕の頭上にふりあげたとしても、僕はその刃《やいば》が落ちて来るまでの僅かな時間にまでも希望を継《つ》ぐことであろう。運さえ悪くなければ、そのとき誰かが窺《うかが》いよって、その敵の胴腹《どうばら》に銃弾《たま》をうちこんでくれるかも知れないのであるから……。
 況《いわ》んや僕等には敵に対して、武器以上の武器がある。そいつは、科学《サイエンス》である。海龍倶楽部の団員やその背後にある政府|筋《すじ》や某大国の黒幕連《くろまくれん》などは、政治手腕はあり、金や権力もあるであろうが、要するに彼等は科学的には失業者に過ぎない。僕等は生活様式や境遇は失業者に違いないが、一度《ひとたび》、ハンマーを握らせ、配電盤《スイッチ・ボード》の前に立たせ、試験管と薬品とを持たせるならば、彼等の度胆《どぎも》を奪うことなどは何でもない。彼等を征服するには、科学が武器である。科学《サイエンス》! 科学《サイエンス》! 彼等の恐怖の標的である科学を以てその心臓を突いてやれ!
 僕はそこに見当をつけて、同志に指令を与えたのだ。扉《ドア》を押して帰って行く林田橋二の後姿が、人造人間《ロボット》のようにガッシリして見えた。

 僕は午前九時になると、いつものように職工服に身を固め、亜細亜《アジア》製鉄所の門をくぐり、常の如く真紅《まっか》にたぎった熔鉄《ようてつ》を、インゴットの中に流しこむ仕事に従事した。焦熱《しょうねつ》地獄《じごく》のような工場の八時間は、僕のような変質者にとって、むしろ快い楽園《らくえん》であった。焼け鉄の酸《す》っぱい匂いにも、機械油の腐りかかった悪臭にも、僕は甘美《かんび》な興奮を唆《そそ》られるのであった。特務機関をつとめる僕にとっては、このカムフラージュの八時間の生活は、休憩時間として作用してくれる。
 夕方の五時になると、製鉄所の門から押し出されて、隠れ家の方へ歩いて行った。一丁ほども行って、十八番館の煉瓦塀《れんがべい》について曲ろうとしたとき、いきなり僕の左腕《さわん》に、グッと重味がかかった。そしてこの頃では
前へ 次へ
全11ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング