もう嗅《か》ぎなれた妖気《ようき》麝香《じゃこう》のかおりが胸を縛るかのように流れてきた。次に耳元に生温《なまあたたか》い呼吸《いき》づかいがあった。
「井東さん。こんばんワ」
「こんばんは、劉《りゅう》夫人《ふじん》」
「劉夫人と仰有《おっしゃ》らないで……。いじわるサン。絹子《きぬこ》と、なぜ呼んでくださらないの!」
「劉夫人」僕は、顔をはじめて曲げて彼女の桜桃《さくらんぼ》のように上気した、まんまるな顔を一瞥《いちべつ》した。「僕は、あなたの餌食《えじき》になるには、あまりに骨ばっています。もっと若くて美しい騎士《ナイト》たちが沢山居ますから、その方を探してごらんになってはどうですか」
「貴方は、すこしも妾《わたし》の気持を察して下さらない。貴方と同じ国に生まれたこの妾の気持がどうして貴方に汲《く》んでもらえないのでしょうかしら。こんな遠い異国に来て、毎日|泪《なみだ》で暮している妾を、可哀想だと思っては下さらないのですか。妾は恥を忍んでまで、祖国のためになることをしようと思っているのですのに」
「そいつは言わないのがいいでしょう。情痴《じょうち》の世界に、祖国も、名誉もありますまい」
「貴方は、今晩はどうしてそう不機嫌なのです。さあ機嫌を直して、今夜こそは、妾のうちへ来て下さい。主人は今朝、北の方へ立ちました。一週間はかえってきますまい。さあこれから行きましょう。ネ、いいでしょう井東《いとう》さん。絹子の命をかけてお願いしてよ」
このしつっこい色情《しきじょう》夫人《ふじん》には、もう三十日あまりも纏《まと》いつかれていた。僕のような肺病やみのどこがよくて誘われるのであろうかと不審にたえない。しかし神経的に考えてみれば思い当らぬところがないでもないので、それは多分|色道《しきどう》の飽食者《ほうしょくしゃ》である夫人が僕の変質に興味を持っているのであるか、それとも、ひょっとすると、同志林田の指摘したように僕の身辺《しんぺん》を覘《ねら》う一派の傀儡《かいらい》で、古い手だが、色仕掛けというやつかも知れない。もしそうだとすると、この劉夫人は容易に僕から離れては呉《く》れないだろう。だが夫人にあまり附きまとわれては、こっちの仕事が一向にすすまなくなるわけだ。こいつは高飛車《たかびしゃ》に出て、一遍で夫人を追い払うのがいいと思った。幸《さいわ》い、今夜の海龍倶楽
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