親 とんだことを仰言《おっしゃ》います。
父親 なあに、本当のことをいっているんだ。無茶苦茶に暗記をしたり、それから、また無茶苦茶に受験書を買いあつめたりするのは愚《ぐ》の骨頂《こっちょう》だよ。そんな詰めこみ主義は役にたたんばかりか、むしろ反対に害がある。常識上重要な原理さえしっかり覚えていれば、いいんだよ。受験書なんか、一冊で沢山だ。この間も勘定したら、お前は漢文《かんぶん》の受験参考書だけでも二十七冊も集めていやがった。まるで蒐集《しゅうしゅう》マニアだ。
母親 蒐集マニアだなんて、まあひどい。あなたの原理主義なんかに従っていると、高等学校のあのむずかしい問題なんか、一題だって出来やしませんわ。
父親 お前がそんなに勉強しているのならちょっと尋《たず》ねるが、颱風が近づいてね、いいかい、真東から風が吹いているんだ。しからば颱風の中心はどの方角にあるか。
母親 颱風の中心ですって、そんなこと試験問題集に出ていませんわ。
父親 それ見ろ、知らないじゃないか。これからの試験にこういう常識上知っておかなければならぬ問題が出るんだぞ。参考のため教えてやろう。いいかね、真東から風が吹いていれば、颱風の中心は南南西よりちょっと西よりの方角にあるんだ。大ざっぱにいうと、風を背にして立って左手を斜前《ななめまえ》へ出す。それが大体、颱風の中心を指《さ》す。どんなものだい。
母親 へへん、さよでございますか、じゃあこんどはあたくしが伺《うかが》いますわ。東洋歴史で、中国で辮髪令《べんぱつれい》が出たのは何年でございますの。
父親 知らん。
母親 あーら、御存知ありませんの、あれは西歴で一六四五年でございますわよ。ほほほほ、じゃあ赤壁《せきへき》の戦《たたかい》は何年でございますの。
父親 知らんよ。
母親 えへん、西歴二〇八年。ではネルチンスクの条約は。
父親 一々|覚《おぼ》えとらん、そんなものは年代表《ねんだいひょう》をめくればすぐ分る。
母親 でも御存知ないのでは、入学試験に合格しませんわ。
父親 ばか、そんな無駄な暗記は意味がないよ。辮髪令の年号なんか何の役に立つんだ。
母親 だからあなたは冷淡だと申すのですわ。万一辮髪令の年号が試験に出て、道夫が答えられなかったその時は、落第でございますよ。一人息子を落第させるなんて、あなたは鬼《おに》か蛇《じゃ》か、実になんという……
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