とを準備していないようなぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]者だと思っているの? あたしが死ぬと同時に、一切が曝露《ばくろ》するという書類と証拠が、或る所に保管されているのを知らないのねえ」
「ああ、僕は大莫迦者《おおばかもの》だった」
 鳴咽《おえつ》する柿丘の声と、淫《みだ》らがましい愛撫《あいぶ》の言葉をもって慰《なぐさ》めはじめた雪子夫人の艶語《えんご》とを其《そ》の儘《まま》、あとに残して、僕はその場をソッと滑るように逃げだすと、跣足《はだし》で往来へ飛びだしたのだった。


     3


 その後、柿丘秋郎と、白石博士夫人雪子とは、すくなくとも外見的には、大変平和そうに見えた。室内にレコードを掛けて、柿丘と雪子とが相抱いて踊りはじめると、赭顔《あからがお》の博士は、柿丘夫人呉子さんを援《たす》けておこして、鮮《あざや》かなステップを踏むのだった。
 秋という声が、どこからともなく聞こえてくると、急に誰もが緊張した顔付をするのだった。柿丘秋郎は、かつての日の雪子夫人の恐迫《きょうはく》に震《ふる》えあがったのを忘れたかのように、事業や講演に熱中した。だが、その度毎《たびごと》に、雪子女史の姿が影のようにつきまとっていたのは、寧《むし》ろ悲惨であると云いたかった。
 柿丘秋郎が、自邸の空地の一隅《いちぐう》に、妙な形の掘立小屋を建てはじめたのは、例の密会事件があってから、三十日あまり過ぎたのちのことだった。その堀立小屋は、窓がたいへん少くて、しかもそれが二メートルも上の方に監房《かんぼう》の空気ぬきよろしくの形に、申《もうし》わけばかりに明《あ》いていた。小屋が大体、形をととのえると、こんどは電燈会社の工夫が入ってきて、大きい電柱を立てて、太い電線をひっぱったり、いかめしい碍子《がいし》を※[#「てへん+丑」、第4水準2−12−93]《ね》じこんだりしたすえに、真黒で四角の変圧器まで取付けていった。それがすむと、厚ぼったいフェルトや石綿《いしわた》や、コルクの板が搬《はこ》び入れられ、それはこの小屋の内部の壁といわず、天井といわず、床といわず、入口の扉《ドア》といわず、六つの平面をすっかり三重張りにしてしまった。室内へ入ると、まるで紡績工場の倉庫の中に入ったような、妙に黴《かび》くさい咽《むせ》るような臭気がするのだった。だがその割合に呼吸ぐるしくないのは、
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