淵《ふち》につきおとすに十分だった。読者は、次のくだり[#「くだり」に傍点]を読んで、僕の呆然《あぜん》たりし顔を想像していただきたい。
「貴女《あなた》はどうしても、僕の希望に応じて呉れないのですか」
「いやなことですわ、ひどい方」
「こんなに僕が、へいつくばってお願いをするのに、それに応《おう》じてはくださらないのですか」
「あたしは、どうあってもいやなんです」
「ほんの僅かな時間でよいのですから、この上に寝て下さい」
「いくらなんでも、貴下《あなた》の前に、そんなあられ[#「あられ」に傍点]もない恰好をするのは、いやですわ」
「お医者さまの前へ行ったのだと思って我慢して下さい」
「お医者さまと、貴下とでは、たいへん違いますわ」
「なんの恥かしいものですか、僕が――」
なにやら、せり合うような気配《けはい》。
「暴力に訴えなさるのですか(とキリリとした雪子夫人の声音《こわね》、だが語尾は次第に柔かにかわる)まア男らしくもない」
「でも今を置いては、機会は容易に来ないのですから」
「あたしは、貴下の御希望に添う気持は、一生ありません。貴下も神に仕《つか》える身でありながら、まだ生れないにしても、一つの生霊《せいれい》を自《みずか》ら手を下して暗闇《やみ》から暗闇《やみ》にやってしまうなんて、残酷な方! ああ、人殺し……」
「大きい声をしないで下さい。どうしてこれだけ僕が説明をするのに判ってくれないんです。貴女が僕の胤《たね》を宿《やど》したということが判ったなら、僕は一体どうなると思うのです。社会的地位も名声も、灰のように飛んでしまいます。そうなると貴女とだって、今までのように贅沢《ぜいたく》な逢《あ》う瀬《せ》を楽しむことが出来なくなるじゃありませんか。僕の病気が再発しても、最早《もはや》博士は救って下さいません。それを考えて、僕は愛していて下さるのだったら、僕の言うことを聞きいれて、この簡単な堕胎手術をうけて下さい」
「何度おっしゃっても無駄よ、あたしはもう決心しているのよ。あたしがお胎《なか》にもっている可愛いい坊やを、大事に育てるんです」
「ああ、それでは、博士を偽《いつわ》って、博士の子として育てようというのですか」
「まア、どうしてそんなことが……。右策《うさく》とあたしとの間に子供が無かったのは、右策自身が子胤《こだね》をもちあわさないからおこっ
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