きもの》を見る習慣があった。並んでいる履物の種類によって、在宅中の顔触《かおぶ》れも知れ、その上に履物の主の機嫌がよいか、それとも険悪《けんあく》かぐらいの判断がつくのであった。その日の玄関には、一足の履物も並んで居なかった。では、おん大《たい》始め夫人まで、まだ海辺《かいへん》から帰っていないのだなと思ったことだった。
それなら、ソッと上りこんで、茶の間で昼寝をしているかも知れない留守女中のお芳《よし》を吃驚《びっくり》させてやろうと思って、跫音《あしおと》を盗ませて入っていったのだった。ところが茶の間にはお芳の姿が見えなかったばかりか、勝手元までがピッシャリ締めてあり、座蒲団の位置もキチンと整頓していて、シャーロック・ホームズならずとも、お芳は相当|長時間《ちょうじかん》の予定で外出したらしいことがわかった。だが、それにしては、何という不用心《ぶようじん》なことだ。現に僕という泥棒がマンマと忍びいったではないか。
だが、このときだった。ボソボソいう声がどこからともなく聴えたように思った。耳のせいかしらと、疑いながら、じッと耳を澄ませていると、いやそれは空耳《そらみみ》ではなかった。たしかに人声がするのだ。しかもそれは此の家の中から洩れ出でる話声だった。
柿丘夫妻はもう帰っていたのだったか。僕は立ちあがるとその声のする方へ、二三歩踏みだしたのだったが、およそ人間が、こういう機会にぶつかることがあったなら、十人が十人(悪いこととは知りながら)と言訳《いいわ》けを吾れと吾が心に試みながら、そっと他人の秘密を盗みぎきするものなのである。僕の場合に於ても、たちまち全身を好奇心にほて[#「ほて」に傍点]らせながら、小さい冒険の第一行動をおこしたことだった。ああ、しかしそれは何という大きい衝動を僕にあたえたことだったろう。話し声の一人は柿丘秋郎にちがいなかったけれど、もう一人の話し相手は呉子さんではなく、なんとそれは白石博士夫人雪子女史だったではないか。
勝手を知った僕は、逸早《いちはや》く身を飜《ひるがえ》して、書斎のカーテンの蔭にかくれることに成功した。そこからは隣りのベッド・ルームの対話が、耳を蔽《おお》いたいほど鮮《あざや》かに、きこえてくるのだった。
そこに聴くことのできた話の内容は、一向に二人の関係について予備知識をもたなかった僕を、驚愕《きょうがく》の
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