もですが、どうか気を鎮《しず》められたい。そんなばかなことがあってたまるものか」
「早く僕の心臓をかえせ。僕は死んじまう……」
「ははあ、察するところあなたは“ベニスの商人”の物語に読み耽《ふ》けられたんだな。心配はいらんです。ここにはシャイロックは居ませんし……」
「ああ僕は死ぬ、心臓がなくなっては……」
「それがあなた真理に反しているのですよ。いいですか、およそ人間たるものが、心臓を失ったら、立ち処《どころ》に死んでしまうでしょう。しかるに君はちゃんとこうして生きて居らるる。それならば君の心臓は盗まれていないと帰納《きのう》してよいじゃありませんか。どうです」
袋探偵は、若紳士に対して噛んで含めるように説いたつもりであった。気の毒な若紳士よ。君はこの頃にはめずらしい神経衰弱にかかり、恐ろしい幻影に怯やかされているのであろう。
だが探偵の説得は、効を奏しなかった。かの若紳士は、毛布の中から血だらけの手を出すと、自分の胸を指して叫んだ。
「このとおり僕の心臓はなくなっている。君はみえないのか」
これには袋探偵は目を瞠《みは》って、急いで懐中電灯を取出すと、その灯を相手の胸へ向けた
前へ
次へ
全23ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング