、頭を下げ顔を掩《おお》うたまま、一度も首をあげようとはしなかった。映画が終って、一座の深い溜息《ためいき》と共に、パッと電灯がついた。
「潮」大江山課長は声をかけた。「この撮影者は誰か」
「あいつです」青年はグッと首をもちあげた。「あいつです。深山楢彦《みやまならひこ》――彼奴《あいつ》がやったんです。子爵夫人と僕とは間違ったことをしていました。深山は而《しか》も夫人に恋をしていたのです。彼奴《あいつ》は私達の深夜の室をひそかに窺《うかが》って暗黒の中にあの赤外線映画をとってしまったんです。深山はそれをもって可憐《かれん》なる子爵夫人を幾度となく脅迫《きょうはく》しました。一度は夫人があのフィルムの一端《いったん》を奪ったのですが、それは焼いてしまいました。バッグの底にのこっているフィルムの焼け屑は、あれだったんです。鬼のような深山は、赤外線利用の技術を悪用して、それまでにも、人の寝室を密《ひそ》かに写真にとっては、打ち興じていたという痴漢《ちかん》です。しかし飽《あ》くまで夫人に未練《みれん》をもつ彼は、夫人が意に従わないときはあの映画を公開するといって脅《おびや》かしたのです。夫人は凡《すべ》てを観念し、とうとう新宿のプラットホームからとびこまれたのです。これも皆、深山の仕業です。夫人は身許《みもと》のわかることを恐れて、いつもあのような服装を持って居られました。あれは最も平凡な、世間にザラにある持ちものを集められたのです。いわば月並《つきなみ》の衣類なり所持品です。それがうまく効《こう》を奏して隅田《すみだ》氏の妹と間違えられたのです。顔面の諸《もろ》に砕《くだ》けたのは、神も夫人の心根《こころね》を哀《あわれ》み給いてのことでしょう。僕は復讐を誓いました。そして深山の室に闖入《ちんにゅう》して、あのフィルムを奪回《だっかい》したのです。彼奴《かやつ》を探しましたが、どうしたものかベッドはあっても姿はありません。早くも風を喰らって逃げてしまった後だったのです。それから僕は……」
このとき白丘ダリアは、先刻《さっき》から耐えていた尿意《にょうい》が、どうにももう持ちきれなくなった。その激しさは、いまだ経験したことが無い位だった。彼女は慌《あわ》てて試写室を出ると、薄暗い廊下に飛び出した。見ると、直ぐ間近《まぢ》かに、赤い灯火《ともしび》が点《とも》っていて、それに「便所」という文字が読めた。
彼女は、飛び立つ想いで、そこの扉《ドア》を押した。扉があくと、そこには清潔な便器が並んでいる洋風厠《ようふうかわや》だった。ダリアはその一つに飛びこんで、パタリと戸を寄せると、気持のよい程、充分に用を足した。
大きい鏡があったので、ダリアはそこで繃帯《ほうたい》を気にしながら、硫酸《りゅうさん》の焼け跡のある顔へ粉白粉《こなおしろい》を叩いた。そして入口の扉を押して、廊下に出た。その途端《とたん》にダリアはハッと駭《おどろ》いて、
「呀《あ》ッ」
と声をあげた。
そこには思いがけなくも、帆村を始め、捜査課長、検事、判事など十四五人が、ダリアの方に身構《みがま》えをしていた。
「まア、どうしたんです。帆村さん」
ダリアの救いを求めた帆村は、最早《もはや》、先刻、射的《しゃてき》で遊んだ帆村とは別人《べつじん》のようであった。
「白丘ダリアさん。それは今大江山捜査課長から説明して下さるでしょう」
言下《げんか》に大江山課長はヌッと前へ出た。
「白丘ダリア。いま汝《なんじ》を逮捕する」
「あたしを逮捕するって、冗談はよして下さい」
「まだ白っぱくれているな。吾々の眼はもう胡魔化《ごまか》されんぞ。白丘ダリアが嫌いだったら、『赤外線男』として汝を捕縛《ほばく》する。それッ」
ワッと喚《わめ》いて、選《え》りぬきの腕に覚えのある刑事が、ダリアの上に折り重なった。もう遁《に》げる道もなければ、方法もなかった。
「赤外線男」は、それっきり自由を奪われてしまった。
* * *
事件が一|段落《だんらく》ついた後の或る日、筆者《わたくし》は南伊豆《みなみいず》の温泉場で、はからずも帆村探偵に巡《めぐ》りあった。彼は丁度《ちょうど》事件で疲れた頭脳を鳥渡《ちょっと》やすめに来ていたところだった。仄《ほの》かに硫黄《いおう》の香《かおり》の残っている浴後《よくご》の膚《はだ》を懐《なつか》しみながら、二人きりで冷いビールを酌《く》み交《か》わした。そのとき彼の口から、この事件の一切の顛末《てんまつ》を聞くことが出来たのだった。彼は中学校で同級だったときのあの飾り気のない口調《くちょう》で、こんな風に最後の解決を語った。
「『赤外線男』が白丘ダリアといったんでは、警官の中にも本気にしない人があった位だよ。しかし要点を云うとネ、元々『赤外線男』という名称は、殺された深山理学士がつけたものなのだ。彼は『赤外線男』を見たといって、いろいろな話をしたが、本当は一度も見たわけじゃなかったのだ。それは彼が便宜上《べんぎじょう》拵《こしら》えた創作的観念であって、実在ではなかった。
何故そんなことをやったかというと、始めはあの新説で世間を呀《あ》ッと云わせて虚名《きょめい》を博しよう位のところだったらしいが、いよいよというときには事務室の金庫から彼が消費《つかい》こんだ大金《おおがね》の穴埋《あなう》めに、『赤外線男』を利用したわけだった。研究室が潮に襲われると、逸早《いちはや》く彼は避難したのだったが、そのチャンスを巧くとらえて、潮のかえった後の自室や事務室を散々自分で破壊してあるき、自ら変圧器の上にあがると、自分の身体を縛ったのだ。智恵のある人間には訳のないことだ。
しかしこの犯行の裏には三人の女が隠れているんだ。そういうと不思議に思うだろうが、一人は情婦《じょうふ》という評判の女・桃枝だ。この女には秘密に大分|貢《みつ》いだものらしい。金庫の金に手をかけたのも、この女のためだ。
もう一人の女は子爵夫人京子だ。これには潮が云ってたように色ばかりではなく、むしろ慾の方が多かったのだ。夫人と潮との秘交《ひこう》を赤外線映画にうつしたのは、夫人に挑《いど》むことよりも莫大《ばくだい》な金にしたかったのだ。もし夫人が相当の金を出したとしたら、深山は事務室の金庫を破る必要もなく、『赤外線男』をひねり出す苦労もしないで済《す》んだことだろう。しかし京子夫人にそんな莫大の金の都合はつかなかった。夫人は死を選んだのだ。
そこへ、もう一人の女性、白丘ダリアという女がいけなかった。これは先天的に異常性を備えた人間だった。左の眼と、右の眼と、視る物の色が大変違うなんて、ほんの一つのあらわれだ。あの狒々《ひひ》のような大女は、自分と反対に真珠のように小さい深山先生に食慾を感じていろいろと唆《そその》かしたのだ。『赤外線男』も、ダリアから出たアイデアだったかも知れない。
しかしダリアの使嗾《しそう》に乗った理学士も、金庫の金を盗んだり、それからダリアの喜びそうもない情婦《じょうふ》桃枝のことを手紙から知られると、すっかりダリアに秘密を握られてしまった恰好《かっこう》になった。其《そ》の後《ご》に来るもの――それを考えると彼は安閑《あんかん》としていられなかった。そこで深山は、思い切って、ダリアが同じ室に寝泊りしているのを幸《さいわ》い、水素|瓦斯《ガス》を使って睡っている彼女を殺そうとしたが、水素乾燥用の硫酸の壜が爆発してダリアに目を醒《さ》まされ、不成功に終ってしまったのだ。
ダリアはこの事を勿論《もちろん》感づいた。しかしだネ、彼女は悪魔だけに賢明だった。事を荒立《あらだ》てる代りに、一層《いっそう》深山の弱点を抑えて、徹底的にこれを牛耳《ぎゅうじ》ってしまう考えだった。ところがあの騒ぎによって彼女の身体に大きな異変が起った。それは飛んで来た硫酸に眼を犯され、右眼《うがん》は大した損傷《そんしょう》もなかったが、左眼《さがん》はまるで駄目になった。結局右眼一つというようなことになってしまった。しかし左眼が潰《つぶ》れたことが異変というのじゃない。左眼が潰れたために、残る一眼が急に機能が鋭くなったんだ。左右の肺の一つが結核菌に侵《おか》されて駄目になると、のこりの一方の肺が代償《だいしょう》として急に強くなり、一つで二つの肺臓の働きをするなどということは、医学上よく聞くことだ。それと似て、ダリアは左眼の明《めい》を失うと同時に、右眼の視力が急に異常な鋭敏さを増加した。元々ダリアの右眼は、左眼よりも物が赤く見えるといっていたが、赤い光線を感ずる神経が発達していたんだ。そんなわけだから、一眼《いちがん》になって異常な視神経の発達により、普通の人には到底《とうてい》見えない赤外線までが、アリアリと彼女の網膜《もうまく》には映《えい》ずるようになったのだ。普通の人が暗闇と思うところでも、ハッキリ視《み》える。――この異常な感覚を自覚したときのダリアの狂喜《きょうき》ぶりは、大変なものだったろう。しかしその狂喜は、同時に彼女の破滅を予約したものでもあった。ダリアは悪魔になりきってしまった。殺人淫楽者《さつじんいんらくしゃ》という恐ろしい犯罪者に堕《お》ちたのだ。そして赤外線が視えるということが、彼女を裏切って秘密曝露《ひみつばくろ》の鍵にまでなってしまった。それは後の話だがネ」
そういって帆村は、何か恐ろしいことでも思い出したらしく、大きい溜息をつくと、ビールを口にもっていって、琥珀色《こはくいろ》の液体をグーッと呑《の》み乾《ほ》した。筆者《わたくし》は壜《びん》をとりあげると、静かに酌《つ》いでやった。
「それからあの殺人騒ぎだ。暗闇の中に、次から次へ起る恐ろしい殺人事件。疑いは一応もってみても、眼のわるいお嬢さんに、そんな芸当が出来ようとは誰も思っていなかった。一方『赤外線男』という『男』の観念がすっかり普及していてお嬢さんに眼をつけることが阻害《そがい》された。誰があの暗黒《あんこく》のなかで、選《よ》りに選《よ》って非常に正確を要する延髄《えんずい》の真中に鍼《はり》を刺しこむことが出来るだろうか。『赤外線男』という超人《ちょうじん》でなければ、到底《とうてい》想像し得られないことだった。ダリア嬢は、然《しか》りその超人的視力をもつ『赤外線女』だったんだ。これはあとで判ったことだけれど、彼女はあの銀鍼《ぎんばり》をシャープペンシルの軸《じく》の中に隠して持っていたのだった。
これに対して僕の探偵力は、全く貧弱《ひんじゃく》なものだった。どう考えていっても、『赤外線男』という超人を肯定するより外《ほか》に仕方がなくなるのだ。僕はそんな莫迦気《ばかげ》たことがと排斥《はいせき》していたのが、そもそも大間違いではなかったかと考え直し、それからもう一度一切の整理をやり返すと、始めてすこし事情が判って来た。
『赤外線男』が殺人をやるようになったのは極《ご》く最近のことだ。以前に於《おい》ては『赤外線男』の呼び声は高かったにしろ、殺人事件はなかった。そこに何物かがひそんでいると気が付いた僕は、殺人事件の発生が、ダリアの一眼失明を機会にして其の以後に連続して行われたということを発見した。同時に探索《たんさく》の結果、ダリアの両眼の視力異常についても聞きこむことが出来た。よし、それなれば、何としても化《ば》けの皮を剥《は》いでみせるぞ。そういう意気ごみで、僕はダリアに近づくと、大変心安くなった。折しも幸運なことに深山の写した子爵夫人と潮との秘交《ひこう》の赤外線映画が手に入ったので、そこにチャンスを掴《つか》む計画を樹《た》てた。僕は手筈をきめて、ダリア嬢を警視庁に呼び出したわけだった。
最初の計画は、残念ながら失敗に近かった。それは庁内の警官射的場で、青赤黄いろとりどりの水珠《みずたま》のように円《まる》い標的《ひょうてき》を二人で射つことだった。僕はドンドン気軽に撃って、彼女にも撃たせようとしたが、ダリアは早くも危険を悟《さと》
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