赤外線男
海野十三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)奇怪《きかい》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一|迷宮《めいきゅう》事件
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)猿臂《えんぴ》[#ルビの「えんぴ」は底本では「えんび」]が
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この奇怪《きかい》極《きわ》まる探偵事件に、主人公を勤める「赤外線男《せきがいせんおとこ》」なるものは、一体全体何者であるか? それはまたどうした風変りの人間なのであるか? 恐らくこの世に於《おい》て、いまだ曾《かつ》て認識されたことのなかった「赤外線男」という不思議な存在――それを説明する前に筆者は是非《ぜひ》とも、ついこのあいだ東都《とうと》に起って、もう既に市民の記憶から消えようとしている一|迷宮《めいきゅう》事件について述べなければならない。
これは事件というには、実にあまりに単純すぎるために、もう忘れてしまった人が多いようであるが、しかし知る人ぞ知るで、識《し》っている人にとっては、これ又奇怪な事件であることに、この迷宮事件が後になって、例の摩訶不思議《まかふしぎ》な「赤外線男」事件を解《と》く一つの重大なる鍵の役目を演じたことを思えば、尚更《なおさら》逸《いっ》することのできない話である。
なんかと云って筆者《わたくし》は、話の最初に於て、安薬《やすぐすり》の効能《こうのう》のような台辞《せりふ》をあまりクドクドと述べたてている厚顔《こうがん》さに、自分自身でも夙《と》くに気付いているのではあるが、しかしそれも「赤外線男」事件が本当に解決され、その主人公がマスクをかなぐり捨てたときの彼《か》の大きな駭《おどろ》きと奇妙な感激とを思えば、一見思わせたっぷりなこの言草《いいぐさ》も、結局大した罪にならないと考えられる。――
さてその日は四月六日で、月曜日だった。
ところは大東京《だいとうきょう》で一番乗り降りの客の多いといわれる新宿駅の、品川方面ゆきの六番線プラットホームで、一つの事件が発生した。
それは丁度《ちょうど》午前十時半ごろだった。この時刻には、流石《さすが》の新宿駅もヒッソリ閑《かん》として、プラットホームに立ち並ぶ人影も疎《まば》らであった。
あの六番線のホームには、中央あたりに荷物|上《あ》げ下《さ》げ用のエレヴェーターがあって、その周囲は厳重な囲《かこ》いが仕切られて居り、その背面には、青いペンキを塗った大きな木の箱があって、これにはバケツだとかボロ布《きれ》などの雑品が入っているのだが、その箱の上を利用して新聞雑誌が一杯拡げられ、傍《そば》に青い帽子を被《かぶ》った駅の売子が、この間に合わせながら毎日規則正しく開かれる店の番をしている。
このエレヴェーターとレールとの間のホームの幅《はば》は、やっと人がすれちがえるほどの狭さであるが、その通路にはエレヴェーターを背にして駅の明《あ》いているうちは不思議にもきまって、必ず一人の若い婦人が凭《もた》れているのだ。その婦人は電車の発着に従って人は変るけれど、其《そ》の美しさと、何となく物淋しそうな横顔については、どの女性についても共通なのであった。この神秘を知っている若いサラリーマン達の間には、このエレヴェーター附近を「佐用媛《さよひめ》の巌《いわ》」と呼び慣わしていた。かの松浦佐用媛《まつうらさよひめ》が、帰りくる人の姿を海原《うなばら》遠くに求めて得ず、遂に巌《いわ》に化したという故事《こじ》から名付けたもので、その佐用媛に似た美しさと淋しさを持った若い婦人がいつも必ず一人は居るというのであった。
その午前十時半にも確かに一人の佐用媛が巌ならぬエレヴェーターの蔭に立っていた。鶯色《うぐいすいろ》のコートに、お定りの狐《きつね》の襟巻《えりまき》をして、真赤《まっか》なハンドバッグをクリーム色の手袋の嵌《はま》った優雅な両手でジッと押さえていた。コートの下には小紋《こもん》らしい紫《むらさき》がかった訪問着がしなやかに婦人の脚を包み、白足袋《しろたび》にはフェルト草履《ぞうり》のこれも鶯色の合《あ》わせ鼻緒《はなお》がギュッと噛《か》みついていた――それほど鮮かな佐用媛なのに、そのひとの顔の特徴を記憶している者が殆んど無いという全くおかしな話だった。尤《もっと》もホームは至って閑散《かんさん》で、そんなことには超人的な記憶力をもっている若い男たちが、幸か不幸かその近所に居合わさなかったせいにもよるだろう。そこへ上りの品川《しながわ》廻《まわ》り東京行きの電車がサッと六番線ホームへ入って来た。運転台の硝子《ガラス》窓の中には、まだ昨夜の夢の醒《さ》めきらぬらしい、運転手の寝不足の顔があった。
「呀《あ》ッ!!」
運転手は弾《はじ》かれたように、座席から立ちあがった。彼の面《おもて》はサッと青ざめた。反射的にブレーキを掛けたが、もう駄目だった。
ゴトリ。……ゴトリ。……
車輪とレールとの間に、確かな手応《てごたえ》があった。あのたまらなくハッキリした轢音《れきおん》が……。佐用媛がいきなりホームからレール目懸《めが》けて飛びこんだのだ!
それから後の騒ぎは、場所柄だけに、大変なものであった。
現場の落花狼藉《らっかろうぜき》は、ここに記すに忍びない。その代り検視の係官が、電話口で本庁へ報告をしているのを、横から聴いていよう。
「……というような着衣《ちゃくい》の上等な点から云いましても、またハンドバッグの中に手の切れるような十円|札《さつ》で九十円もの大金があるところから考えましても、相当な家庭の婦人だと思います。……ああ、年齢《とし》ですか。それがどうも明瞭《めいりょう》でありませぬ。何《なん》しろ、顔面《かお》を滅茶滅茶《めちゃめちゃ》にやられてしまったものですからネ。しかし着物の柄《がら》や、四肢《しし》の発達ぶりから考えますと、まず二十五歳前後というところでしょうナ」
係官は何を思い出したものか、ここでゴクリと唾を嚥《の》みこんだ。
やがて鶯色のコートを着た轢死婦人《れきしふじん》の屍体《したい》は、その最期《さいご》を遂げた砂利場《じゃりば》から動かされ、警察の屍体収容室に移された。いつもの例によれば、ここへ誰か遺族が顔色をかえて駈けこんでくるのが筋書《すじがき》だったが、どうしたものか何時《いつ》まで経《た》っても引取人《ひきとりにん》が現れない。告知板《こくちばん》に掲示《けいじ》をしてある外《ほか》、午後一時のラジオで「行路病者《こうろびょうしゃ》」の仲間に入れて放送もしたのであるが、更《さら》に引取人の現れる模様がなかった。これだけの大した身なりの婦人で、引取人の無いのは不思議|千万《せんばん》だと署員が噂《うわ》さし合っているところへ、待ちに待った引取人が現れた。それは轢死後《れきしご》、丁度《ちょうど》十四時間ほど経った其の日の真夜中だった。
それは隅田乙吉《すみだおときち》と名乗る東京市中野区の某《ぼう》料理店主だった。彼はそんな商売に似合わぬインテリのように見うけた。警察の卓子《テーブル》の上に拡《ひろ》げられた数々の遺留品《いりゅうひん》を一つ一つ手にとりあげながら、彼はコンパクト一つにもかなり明瞭な説明をつけ加えた。轢死人は彼の末《すえ》の妹だったのだ。
「このコンパクトですがネ、梅子《うめこ》――これは死んだ妹の名前なのです、梅子はもう五年もこのコティのものを使っていましたよ。ごらんなさい。蓋《ふた》をあけてみると、この乱暴な使い方はどうです。あいつの性格そのものですよ。妹は今年二十四になりますが、どっちかというと不良《ふりょう》の方でしてネ、それも梅子自身のせいというよりも私達|同胞《きょうだい》もいけなかったんです。何《なに》しろ兄や姉が、合わせて八人も居るのです。皆、相当楽に暮しているんです。梅子は末《すえ》ッ子でした。兄や姉のところをズーッと廻ると、あっちでもこっちでも「梅ちゃん」「梅ちゃん」とチヤホヤされ、「ほら、お小遣《こづか》いヨ」と貰う金も、十七八の少女には余りに多すぎる嵩《かさ》でした。梅子は純真な子供心の向うままに、好きなことをやっているうちに、とうとう不良になっちまったんです。このごろでは流石《さすが》の同胞たちも、梅子から持ちこまれる尻拭《しりぬぐ》いに耐《た》えきれなくなって、何でもかんでも断ることにしていたのです。轢死をする前の晩も私のところへ来ましたが、又《また》金の無心《むしん》です。これが最後だというので百円|呉《く》れてやったところ、素直に帰ってゆきました。そのときは、よもやこんな惨《むごた》らしいことになろうとは思いませんでした。……なんですって、警察へ来ようが大変遅かったって、それはこうですよ。ちょっと私は商売のことで午後から出て居りまして帰りが遅かったものですから……」
顔面《かお》は判らぬが、髪かたちに、それから又身のまわりの品物などを一々|肯定《こうてい》したので、轢死婦人は隅田乙吉の妹うめ子であると断定された。乙吉は幾度も係官の前に迷惑をかけたことを謝《しゃ》し、屍体は持参《じさん》の棺桶《かんおけ》に収《おさ》め所持品は風呂敷《ふろしき》に包んで帰りかけた。
「オイ隅田君、ちょっと待ち給え」司法係《しほうがかり》の熊岡《くまおか》という警官が席から立ち上って来た。
「はいッ」隅田乙吉は、手にしていた風呂敷包みを又|卓子《テーブル》の上に置いて振りかえった。
「君はこんなものを知らんか」
警官は掌《て》の上に、ヨーヨーを横に寝かしたような紙函《かみばこ》を載せて、乙吉の方にさしだした。
「これは……?」乙吉の受取ったのは、よく鉱物《こうぶつ》の標本《ひょうほん》を入れるのに使う平べったい円形《えんけい》のボール函《ばこ》で、上が硝子《ガラス》になっていた。硝子の窓から内部《なか》を覗《のぞ》いてみると、底にはふくよかな脱脂綿《だっしめん》の褥《しとね》があって、その上に茶っぽい硝子|屑《くず》のようなものが散らばっている。
「判らんかネ」と警官は再び尋《たず》ねた。「これはセルロイドの屑なんだ。そして燃え屑なんだがネ」
「どこに御座いましたのですか」
「これは、君が今引取ってゆこうという轢死婦人のハンドバッグの隅《すみ》からゴミと一緒に拾い出したのだ」
「さあ、どうも見当《けんとう》がつきませんが……」
どうやら隅田乙吉は、本当に心当りがないらしかった。で、熊岡警官はそれ以上|追究《ついきゅう》したり、また今とりつつある上官《じょうかん》の処置に異議《いぎ》を挿《はさ》もうという風でもなく、事実その問答はそこで終ったのであった。
隅田乙吉が屍体を守って中野の家へ帰ってゆくと、入れ違いに新聞社の一団が殺到《さっとう》して来た。
「とうとう、新宿の轢死美人《れきしびじん》の身許《みもと》が判ったてじゃありませんか。誰だったんです」
「自殺の原因は何です」
「全然|素人《しろうと》じゃないという噂《うわ》さもありましたが……」
当直《とうちょく》は、記者に囲まれたなり、ふかぶかと椅子の中に背を落とした。そして帽子を脱いで机の上に置くと、ボリボリと禿《は》げ頭を掻《か》いた。
「書きたてるほどの種じゃないよ。それに轢死美人でも顔が見えなくちゃなア」
本気か冗談か判らぬようなことを云って、アーアと大欠伸《おおあくび》した。記者連《きしゃれん》もこんな真夜中に自動車を飛ばして駈けつけたことが、のっけからそもそもの誤《あやま》りだったような気がして、一緒に欠伸を催《もよお》したほどだった。
しかし、それから二十四時間後に、彼等は同じこの場所に、互《たがい》に血相《けっそう》をかえて「怪事件発生」を喚《わめ》きあわねばならないなどとは、夢にも思っていなかったのである。
2
それから二十四時間ほど経った。
同じ警察署の夜更《よふ》けである。今夜は事件もなく、署内はヒッソリ閑《かん
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