いるものやら見当がつかなかった。どこから金を見つけて来たかと思うような堂々たる五階建のアパートなどが目の前にスックと立って、行《ゆ》く手《て》を見えなくした。彼は忌々《いまいま》しそうに舌打ちをして、大田中《おおたなか》アパートにぶつかると、その横をすりぬけようとした。そしてハッと気がついた。
 見ると、アパートの高い非常梯子《ひじょうばしご》に、近所の人らしいのが十四五人も載《の》って、何ごとか上と下とで喚《わめ》きあっているのだ。
「どうしたんです」
 帆村は道傍《みちばた》に立っている人のよさそうな内儀《おかみ》さんに訊《たず》ねた。
「なんですか、どうも気味の悪い話なんでござんすよ」と内儀さんは細い眉《まゆ》を顰《しか》めると、赤い裏のついた前垂《まえだれ》を両手で顔の上へ持っていった。「あのアパートの五階に人が死んでいるんだって云いますよ。そういえば、このごろ、近所の方が、何だか莫迦《ばか》に臭《くさ》い臭《くさ》いと云ってましたが、その死骸《しがい》のせいなんですよ。まあ、いやだ」
 内儀さんは、ゲッゲーッと地面へ唾《つば》をはいた。
「じゃ、よっぽど永く経《た》った死骸なんですネ」
「そうなんだそうですよ。開けてみると、押入れの中にそれがありましてネ、もう肉も皮も崩れちゃって、まッ大変なんですって。着物を一枚着ているところから、女の、それも若いひとだってぇことが判ったって云いますよ」
「ナニ、若い女の屍体?」帆村はドキンと胸を打たれた。そうだ、今日は探しに歩こうと思っていたあの女の屍体かも知れない。日数が経っているところから云っても、これは見遁《みのが》せないぞと、心の中で叫んだ。
「そこは、その女の人の借りている室なんですか」
「いいえ、そうじゃないですよ。あすこは潮《うしお》さんという若い学生さんが一人で借りているんです。ところが潮さん、この頃ずっと見えないそうで……」
「その潮さんというのは、若《も》しや背丈の大きい、そうだ、五尺七寸位もある人でしょう」
「よく知ってますね」と内儀さんは、はだけた胸を掻《か》き合《あ》わせながら云った。「ちょいといい男ですわヨ、ホッホッホ」
 帆村は苦笑した。
「あらッ、向うから潮さんが帰ってきちゃったわ」
「えッ」と帆村は駭《おどろ》いて、内儀さんの視線の彼方を見た。
「まア大変顔色がわるいけれど、あの人に違いない……」
 その言葉の終らないうちに、帆村は向うから飄々《ひょうひょう》とやってくる潮らしき人物の袂《たもと》を抑《おさ》えていた。
「潮君」
「呀《あ》ッ」
 青年は帆村の手をヒラリと払って、とッとと逃げ出した。帆村はもう必死で、このコンパスの長い韋駄天《いだてん》を追駈《おいか》けた。そして横丁を曲ったところで追付いて、遂《つい》に組打ちが始まった。そのとき青年の懐中《ふところ》から、コロコロと平べったい丸缶《まるかん》のようなものが転げ出て、溝《みぞ》の方へ動いていった。
「ああ――それは……」
 と青年の腕が伸びようとするところを、帆村は懸命に抑えて、うまく自分の手の内に収めた。そこへバラバラと警官と刑事とが駈けつけたので、帆村は間違われて二つ三つ蹴られ損《ぞん》をしただけで助かった。彼が手に入れたものは一巻のフィルムだった。それも十六ミリの小さいものだった。
 ああ、フィルムといえば、身許不明の轢死《れきし》婦人のハンドバッグに、フィルムの焼《や》け屑《くず》があったではないか。
 帆村は、深山理学士と情婦の桃枝との殺害場所を点検すると、大急ぎで日本堤署へ引かえした。その頃には、本庁からも予審判事が駈けつけていたが、もう何事も観念したものと見え、潮十吉という青年は、墓場から婦人の死骸を掘りだして遁《に》げたことを白状していた。しかし婦人が何者であるか、彼との関係はどうなのであるかについては中々口を緘《つぐ》んで語らなかった。フィルムのことは意外にも、深山理学士の室から奪ったものだと告白したが、事務室から千二百円の大金を盗んだことは極力《きょくりょく》否定した。
 あとは本庁で調べることとし、意気昂然《いきこうぜん》たる老判事は、潮十吉と帆村とを伴《ともな》って、警視庁へ引上げた。
 今朝の不機嫌をどこかへ落してしまった大江山捜査課長の前に、帆村探偵は手に入れた一巻のフィルムを置いて、いろいろと打合わせをした。
「じゃ、午後の五時に、本庁の第四映画|検閲室《けんえつしつ》で試写ということにするのですね」
「そう決めましょう。じゃ万事《ばんじ》よろしく」捜査課長は、何が嬉しいのか、帆村の手をギュッと握った。


     8


 帆村は一名の警官と連れ立って、黒河内子爵《くろこうちししゃく》を訊ねた。子爵の代りに、例の白丘ダリアが出て、子爵は重態《じゅうたい》で、看護婦が二人もついている騒ぎだからと云った。
「実は、失踪された子爵夫人のことに関し、是非ご覧願いたい映画の試写があるのですが、それは困りましたネ」と帆村は長くもない頤《あご》を指先でつまんだ。
「映画ですか。あたし、代りに行きましょうか」
「そうですか。じゃ子爵の御了解《ごりょうかい》を得て来て下さい。よかったら御一緒に参りましょう」
「ええ、いくわ」
 ダリアは、まだ繃帯のとれぬ大きな頭を振り振り奥に引きかえしたが、直《す》ぐコートと帽子とを持ってあらわれた。
「さあ、お伴しますわ」
 三人が警視庁についたのは、すこし早すぎた。
「ねえ、ダリアさん。まだ四十分もありますよ」
「退屈ですわネ」
「ちょっと永いですネ」と帆村は云った。「そうそう、この中に面白いものがありますよ。警官に射撃を訓練させるために、室内|射的場《しゃてきば》がつくってあります。僕たちが行っても構わないのです。行ってみませんか」
「射的ですって? あたし、これでも射撃は上手なのよ」
「じゃいい。行ってみましょう」
 呑気千万《のんきせんばん》にも帆村は、ダリアを引張って、警官の射的室へ連れて来た。そこは矢場のように細長い室だが、手前の方に、拳銃《ピストル》を並べてある高い台があって、遥《はる》か向うの壁には、大きな掛図《かけず》のような的《まと》がかかっていた。その的というのは、白い紙の上に、水珠《みずたま》を寄せたように、茶椀《ちゃわん》ほどの大きさの、青だの、赤だの、黄だの円《まる》が、べた一面に描いてあって、その上に5とか3とかいう点数が記してあった。
「僕やってみましょうか」帆村は気軽に拳銃《ピストル》をとって、覘《ねら》いを定《さだ》めると、ドーンと一発やった。3点と書いた大きな赤円《あかまる》に、小さい穴がプスリと明いた。
「どうです。相当なものでしょう」
 そういいながら、彼は次から次へと、あまり点数の多くない色とりどりの円を、撃ちぬいていった。
「今度は、ダリアさん、やってごらんなさい」帆村は拳銃を彼女の方に薦《すす》めた。
「エエ――」とダリアは答えたが、「あたし、よすわ」とハッキリ云った。
「そんなことを云わないで、やってごらんなさいな」
「だってあたし……あたし、眼が悪くて駄目なんですわ」
 そういってダリアは、カラカラと男のような声で笑った。
 まだ時間はあったから、二人は食堂へ行った。そこでオレンジ・エードを注文して、麦藁《むぎわら》の管《くだ》でチュウチュウ吸った。
「警視庁なんてところ、随分《ずいぶん》開けてんのネ」ダリアは、帆村をすっかり友達扱いにしていた。
「それはそうですよ。貴女《あなた》みたいな方をお招きすることもありますのでネ」
「だけど、このオレンジ・エード、なんだか石鹸くさいのネ。あたし、よすッ」
 半分ばかり吸ったところで、ダリアは吸管《すいくだ》を置いた。
 そんなことをしている裡《うち》に時間が経って、警官がわざわざ二人を探しに来た程だった。
 階段を地下へ降りて、長い廊下をグルグル廻ってゆくと、大変天井の低い暗いところへ出た。例の赤外線男が出て来そうな気配《けはい》だったが、しかし仄暗《ほのぐら》いながら電灯がついているから停電でもしない限り先《ま》ず大丈夫だろう。
 映画検閲用の試写室は、思いの外《ほか》、広かった。壁は一様にチョコレート色に塗ってあり、まるで講堂のような座席が並んでいた。正面には二メートル平方位のスクリーンがあった。
 もう七八人の人が入っていた。雁金検事、中河判事、大江山捜査課長の顔も見えた。
 そこへ別の入口から、警官に護られて、潮十吉《うしおじゅうきち》が手錠《てじょう》をガチャガチャ云わせながら入って来て、最前列《さいぜんれつ》に席をとった。そこは、帆村探偵と白丘ダリアとが並んである丁度《ちょうど》その横だった。
「もうこれで皆さん全部お揃いですか」
 警官の映写技師が、一番後方から声をかけた。
「うん、揃ったぞ。もう始めて貰おうか」
 帆村のうしろにいた捜査課長が声をかけた。
「じゃ始めます。あれを演《や》る前に、一つ調子をつけるために、実写《じっしゃ》ものを一巻写してみます。ウィーンの牢獄です」
 スクリーンの上へ、サッと白い光が躍ると、室内の電灯がパッと消された。一座はハッと緊張した。まずスクリーンの明るさで、室の中は暗闇だというほどではないが、しかし椅子の下、後方の両脇などには、小暗《こぐら》い蔭があった。それにこうして平然と、画面に見入《みい》っていていいものかしら、赤外線男の出てくるには屈強《くっきょう》な地下室ではないか。
 しかし一巻の映画は、極めて短いものであった。そしてまだ映画がうつっているのに、早くも電灯がパッと明るく室内を照らした。
「さあ、いよいよこの次だ」
「一体どんな映画なのだろう」
 人々は胸のうちに、あれやこれやと想像をめぐらせた。
「私を外へ出して下さい」潮十吉は隣りに遊んでいる警官に訴えた。
「いや、ならん」
 警官の声はあっけなかった。
 さあ、いよいよ問題の映画が写し出されようとしている。潮十吉が、深山理学士のところから奪って来たフィルムはこれだ。そして身許《みもと》不明の轢死《れきし》婦人のハンドバッグの底に発見せられたのも、矢張《やは》り同じフィルムだった。この映画が写し出されたが最後、意外なことが起るのではないか。既に靴の跡によって嫌疑《けんぎ》の深い潮十吉であるが、この一巻の映画によって、彼の正体が暴露《ばくろ》するのではあるまいか。赤外線男は潮十吉か。或いは赤外線男の合棒《あいぼう》でもあるか。
 カタリと音がして、スクリーンの上に、青白い光芒《こうぼう》が走った。こんどは十六ミリであるから、画面はスクリーンの真中《まんなか》に小さくうつった。
「ああ、これは……」
「ウム……」
 画面の展開につれ、人々は苦しそうに呻《うな》った。誰かが、いやらしい咳払《せきばら》いをした。
 いまスクリーンに写っている画面には二人の人物が出ている。
「ああ、こっちは、潮十吉だな」帆村は、あえぐように叫んだ。
「ああ、あれは伯母《おば》様ですわ。伯母様に違いないわ。だけど、ホホ……まッ……」
 といったきり、白丘ダリアは口を噤《つぐ》んだ。
 さて画面に、それから如何なる情景《じょうけい》が展開していったか、その内容についてはここに記《しる》すことが許されぬ。しかしそれは密閉されたる室のうちで演じられている怪しげなる戯《たわむ》れだった。斯《か》かる情景は人目のつかぬ真夜中に行うべきものだと思うのに、それがまことに明るい光の下に於て行われている。そのいぶかしさは、尚《なお》も仔細に画面を点検すれば、次第に明瞭《めいりょう》だった。それは赤外線で撮影した活動写真であったのだ。
 恐らく場面は、真夜中であったろう。真暗な室の中に、この場のことは演ぜられたのに違いない。それにも係《かかわ》らず、この室にどこからか赤外線を当て、それを赤外線の活動写真に撮影したのだった。そして人物は子爵《ししゃく》夫人黒河内京子と青年潮十吉!
 さてこの呪うべき撮影者は、一体誰であるか。
 潮はこの映画の写っている間は
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