残るは深山《みやま》理学士だ。これは確かに怪《あや》しくてもいい人物だ。しかし彼は赤外線男を見たという。赤外線男が二人もあるなら格別、一人なら彼の嫌疑《けんぎ》は薄い。ことに彼は赤外線男に襲撃され、変圧器の上へ抛《ほう》り上げられていた被害者ででもある。感心しない。
 然《しか》らば白丘ダリア嬢はどうだ。「赤外線男」というからには、ダリア嬢では性別が違っている。男が女装しているものとはあの溌溂《はつらつ》たる肉体美から云って信じられない。殊《こと》に課長がやられた日には、眼を悪くしていた。あのように視力の弱っているのに、延髄を刺すというような精密正確を要することが出来るであろうか。
 いや凡《およ》そ、あの部屋にいた連中は皆、闇黒《あんこく》の中に沈澱《ちんでん》していたのだ。誰も視力を奪われていた。暗闇で延髄《えんずい》を刺すということは、誰にも出来ない筈だ。
 残る嫌疑者《けんぎしゃ》は自分であるが、これとても同じことが云える。
 然らば、誰が課長を殺したか?
 ああ、赤外線男! 貴様はやっぱり存在するのか。貴様でなければ、あの殺人は出来ないことにはなるが、貴様は一体何者だッ。
 帆村は呻《うな》りながらも、まだ何か忘れているものがありはしないかと、痛む頭脳《あたま》をふり絞った。
 有るには有る。あの延髄《えんずい》を刺した鍼《はり》だ。調べてみると指紋はあった。しかし細い鍼《はり》の上にのった幅《はば》のない指紋なんて何になるのだ。
 それから、深山理学士の室で発見された大きい靴跡だ。あれが赤外線男のものとして、背丈を出すと五尺七寸位。これはいい。
 次に事務室で盗まれた千二百円だ。赤外線男に金が要《い》るとは可笑《おか》しい。しかし靴を履《は》いていたり、黒い洋服のようなものを着ているというからには、矢張《やっぱ》り金が要るのかしら。しかし、その金をどうして使うのだ。彼自身が握っていたのでは、金は他人の眼に見えないだろうし、第一洋服店の前に立って、洋服を注文したところで、背丈《せたけ》肉付《にくづき》もわからなければ、店の方でも声ばかりするのでは驚いて、不思議な噂話がパッと拡《ひろ》がらねばならぬ。それも聞えてこないというのは、若《も》しや赤外線男に手下《てした》があるのではあるまいか。
 世間では、新宿のホームから飛びこんで轢死《れきし》した婦人の身許《みもと》もわからないし、地下に葬《ほうむ》った筈《はず》の死骸が紛失《ふんしつ》した不思議さを、今も尚《なお》覚《おぼ》えていて、あれも赤外線男の仕業だろうと云っているようだ。死骸を奪ったのが赤外線男だとすると、それは何のためだ。外国の小説には、火星人が地球の人間を捕虜《ほりょ》にし、その皮を剥《は》いで自分がスッポリ被り、人間らしく仮装して吾れ等の社会に紛《まぎ》れこんでくるのがある。しかしあの婦人の顔面《かお》は滅茶滅茶《めちゃめちゃ》だった筈だ。婦人に化けたとしても、あの顔をどうするのだ。顔をかくしている婦人なんて印度《インド》や土耳古《トルコ》なら知らぬこと、この日の本にありはしない。婦人の死骸の行方が判らない限りこの問題は解決がつかない。
 それから熊岡警官が轢死婦人のハンドバッグから探し出したフィルムの焼《や》け屑《くず》だ。あれは一体何だ。あれが判明すると、婦人の死因は勿論、身許まで解ることだろう。
 赤外線男に関係あるかどうかは二段として、この婦人の問題を解いて置くことは、あまり困難でもない。その上に、隅田梅子《すみだうめこ》という婦人と轢死婦人とが同じ衣類所持品をもっていたという暗合、それから黒河内子爵《くろこうちししゃく》夫人が、行方不明で、今も尚《なお》生死が知れぬが、あの少し前に、乱歩《らんぽ》氏の「陰獣《いんじゅう》」のことを言い出したという事――よし、明日から、この方面を徹底的に調べてみよう。
 帆村は、こう考えると、静かに椅子から立ち上って卓子《テーブル》の灰皿へ長くなった白い葉巻の灰をポトンと落した。
 そのとき卓上電話がジリジリと鳴った。帆村はキラリと眼を輝かすと、電話機を取上げた。
「帆村君を願います」性急《せいきゅう》な声が聞えた。
「帆村は私ですが、貴方は?」
「ああ、帆村君。私です。捜査課長の大江山警部ですよ」それは故幾野課長の後を襲った新進《しんしん》の警部だった。
「大江山さんですか。また何かありましたか」
「ええ、あったどころじゃないです。唯今《ただいま》総監閣下が殺害《さつがい》されました」
「ナニ総監閣下が……? 本当ですか」
「困ったことですが、本当です」
「一体どうしたのです。どこでやられたのです」
「今日は御案内したとおり、深山理学士の赤外線テレヴィジョン装置を、本庁の一室にとりつけたのです。それは警戒を充分にして、この装置で丹念《たんねん》に赤外線男を探しあてようというのです。深山さんに白丘さんと、お二人に来て貰って取付けました。実験は午後三時から開始するつもりで、貴方《あなた》にもお出で願うよう申上げて置きましたが、先刻《さっき》総監閣下が急に見たいと仰有《おっしゃ》るので到頭《とうとう》ご覧に入れちまったのです」
「そりゃ拙《まず》かったですネ」と帆村は腹立たしそうに云った。
「私ども始めはお止《と》めしたのです。しかし閣下は他出《そとで》される約束があって、その日の三時にはご覧《らん》になれないのです。それで強《し》いてというお話ですし、一方例の用意もありまして大丈夫だと思ったのです」
 例の用意というのは、深山理学士と白丘ダリア嬢には秘密で、この室内の一隅に小さい赤外線|発生灯《はっせいとう》を点じ、隠し穴を通じて隣室からこの室内を活動写真に撮《と》る。つまり肉眼で見えぬ光線を室内に送って置いて、室内の人々の動静《どうせい》を赤外線映画に収めてしまう。斯《こ》うすれば、その中で怪《あや》し気《げ》な行動をする者がフィルムの上に映《うつ》った筈だから、後で現像すればそれと判る――こんな仕掛けを予《あらかじ》め作って置いたのである。しかし総監閣下が犠牲《ぎせい》になられたのでは、何にもならない。本庁の連中の愚鈍《ぐどん》さに、帆村は呆《あき》れる外《ほか》なかった。
「で、閣下がお入りになってから、フィルムを廻したのですネ」
「そうです。うまく撮ったつもりです。――だが閣下は殺害されました。兇器《きょうき》は鍼で、同じように延髄を刺しつらぬいています」
「現像は……」
「今やっています。直《す》ぐこれからおいで願いたいのです」
「ええ、参ります」
 帆村は憂鬱《ゆううつ》な返辞《へんじ》をした。
 駆《か》けつけてみると、本庁は上を下への大騒ぎだった。殺《や》られる人に事欠《ことか》いて、総監閣下が苟《かりそ》めの機会から非業《ひごう》の死を遂《と》げたというのだから、これは大変なことである。
「どうです。フィルムの現像は出来ましたか」帆村は課長に会うと、真先《まっさき》に訊《き》いた。
「出来たのですが……」
「どうしたんです?」
「駄目でした。赤外線灯の前に、どういうものかドヤドヤと人が立って、肝心《かんじん》のところは真暗で、何にも写ってやしません」
 課長は、面目《めんぼく》なげに下俯《うつむ》いた。
「深山氏とダリア嬢は、調べましたか」
「今度こそはというのでよく調べました。身体検査も百二十パーセントにやりました。ダリア嬢も気の毒でしたが、婦人警官に渡して少しひどいところまで、残る隈《くま》なく調べ、繃帯《ほうたい》もすっかり取外《とりはず》させるし、眼鏡もとられて眼瞼《まぶた》もひっくりかえしてみるというところまでやったんですが、何の得《う》るところもありません」
「ダリア嬢の眼はどうです」
「ますますひどいようですよ。左眼《さがん》は永久に失明するかも知れません。右眼も充血がひどくなっているそうです」
「ダリア嬢は眼のわるい点でいいとして、深山氏の行動に不審はなかったんですか」
「ところが深山氏は閣下にいろいろと詳《くわ》しく説明していた最中《さいちゅう》なのです。深山氏が喋《しゃべ》っているのに、閣下はウーンといって仆《たお》れられたのです。深山氏を疑うとなれば、喋っていながら手を動かして鍼《はり》を突き立てるということになりますが、これは実行の出来ないことですよ」
「すると二人の嫌疑は晴れたのですか」
「まあ、そうなりますネ。二人もこれに懲《こ》りて、今後はどんなことがあっても、あの装置を働かす暗室《あんしつ》内へは行かないと云っていますよ」
「では犯人は一体誰なんです」
「赤外線男――でしょうナ」
「課長さんは、赤外線男だといって満足していられるんですか」
「今となっては満足しています。昨日までは稍《やや》信じなかったですが、今日という今日は、赤外線男の仕業《しわざ》と信じました。この上は、私どもの手で、あの装置を二十四時間ぶっ通しに運転して、赤外線男を発見せずには置きません」
「しかし、レンズは室内を睨《にら》ませたがいいですよ。あの室内に赤外線男がウロウロしているのではネ」
 帆村は、課長の勇猛心に顔負けがして、ちょっと皮肉《ひにく》を飛ばした。


     7


 その次の朝のことだった。
 帆村荘六は早く起き出ると、どうした気紛《きまぐ》れか、洋服箪笥からニッカーと鳥打帽子とを取り出して、ゴルフでもやりそうな扮装《ふんそう》になった。
 しかし別にクラブ・バッグを引張《ひっぱ》り出すわけでもなく、細い節竹《ふしだけ》のステッキを軽く手にもつと、外へ飛び出した。忌《いま》わしい第一、第二の犠牲者を、昨日一昨日に送ったとは思えないほど、麗《うらら》かな陽春の空だった。
 彼は先ず、警視庁の大きな石段をテクテク登っていった。
「どうです。何か見付かりましたか」彼は捜査課長の不眠に脹《は》れぼったくなった顔を見ると、斯《こ》う声をかけた。
「駄目です」と課長は不機嫌に喚《わめ》いてから、「だが、昨夜また犠牲が出たんです。今朝がた報《しら》せて来ました」
「なに、又誰かやられたんですか」
「こうなると、私は君まで軽蔑《けいべつ》したくなるよ」
「そりゃ、一体どうしたというのです」帆村は自分でもなにかハッと思いあたることがあるらしく、激しく息を弾《はず》ませながら問いかえした。
「浅草の石浜《いしはま》というところで、昨夜の一時ごろ、男と女とが刺し殺された。方法は同じことです。女は岡見桃枝《おかみももえ》という女で、男というのが……」
「男というのが?」
「深山《みやま》理学士なんだッ。これで何もかも判らなくなってしまった」
 課長は余程《よほど》口惜しいものと見えて、帆村の前も構わず、子供のような泪《なみだ》をポロポロ滾《こぼ》した。
「そうですか」帆村も泪を誘《さそ》われそうになった。「じゃ貴方も深山理学士は大丈夫といいながら、一面では大いに疑っていたんですネ」
「そりゃそうだ。今となって云っても仕方が無いが、ひょっとすると、赤外線男というものは、深山理学士の創作じゃないかと思っていた」
「大いに同感ですな」
「視《み》えもせぬものを視えたといって彼が騒いだと考えても筋道が立つ。――ところが其《そ》の本人が殺されてしまったんだから、これはいよいよ大変なことになった」
「僕は兎《と》に角《かく》、見に行って来ます。あれは日本堤署《にほんつつみしょ》の管内《かんない》ですね」
 課長は黙って肯《うなず》いた。
 警察へ行ってみると、現場《げんじょう》はまだそのままにしてあるということだった。場所を教えて貰《もら》うと、彼は直ぐ警察の門を飛び出した。
 そこから、桃枝の家までは五丁ほどで、大した道程《みちのり》ではなかった。彼は捷径《ちかみち》をして歩いてゆくつもりで、通りに出ると、直ぐ左に折れて、田中町《たなかまち》の方へ足を向けた。震災前《しんさいぜん》には、この辺は帆村の縄張《なわば》りだったが、今ではすっかり町並《まちなみ》が一新《いっしん》してどこを歩いて
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