にしている伯父《おじ》黒河内子爵《くろこうちししゃく》のところへ帰ってゆくことをやめ、深山研究室の中にベッドを一つ置き、学士と共に寝起きすることとなった。碌《ろく》に睡眠時間もとらないで、この組立に急いだ結果、四日という短い日数《にっすう》のうちに、新しい第二装置ができあがった。しかし学士はあの事件以来、何とはなく大変疲れているようであった。その一方、白丘ダリアは益々《ますます》健康に輝き頸《くび》から胸へかけての曲線といい、腰から下の飛び出したような肉塊《にくかい》といい、まるで張りきった太い腸詰《ちょうづめ》を連想《れんそう》させる程だった。従って第二装置の素晴らしい進行速度も、ダリアの精力《せいりょく》に負うところが多かった。
研究室の扉《ドア》をコツコツと叩くと、直ぐに応《こた》えがあった。入口が奥へ開かれると、そこへ顔を出したのは、頭に一杯|繃帯《ほうたい》をして、大きな黒眼鏡をかけた若い女だった。先登《せんとう》に立っていた課長は、
(これは部屋が違ったかナ)
と思った位だった。
「さあ、皆さんどうぞ」
そういう声は、紛《まぎ》れもなく白丘ダリアに違いなかった。どうしてこんな繃帯をしているのだろう。それに黒眼鏡《くろめがね》なんか掛けて……と不思議に思った。
一行中の新顔《しんがお》である帆村探偵が、深山《みやま》理学士と白丘ダリアとに、先《ま》ず紹介された。
「いや、ダリアさんですか、始めまして」と帆村は慇懃《いんぎん》に挨拶をして「その繃帯はどうしたんです」と尋《たず》ねた。
課長はこの場の様子を見て、いつもながら帆村の手廻しのよいのに呆《あき》れ顔だった。
「これですか」少女はちょっと暗い顔をしたが「すこしばかり怪我《けが》をしたんですの。繃帯をしていますので大変にみえますけれど、それほどでもないのです」
「どうして怪我をしたんですか」
「いいえ、アノ一昨晩《いっさくばん》、この部屋で寝ていますと、水素乾燥用の硫酸《りゅうさん》の壜が破裂をしたのです。その拍子《ひょうし》に、棚《たな》が落ちて、上に載《の》っていたものが墜落《ついらく》して来て、頭を切ったのです」
「そりゃ大変でしたネ。眼にも飛んで来たわけですか」
「何しろ疲れていたもので、直《す》ぐ起きようと思っても起き上れないのです。先生は直ぐ駈けつけて下さいましたけれど、あたくしが、愚図愚図《ぐずぐず》しているうちに、頭髪《かみ》についていた硫酸らしいものが眼の中へ流れこんだのです。直ぐ洗ったんですが、大変痛んで、左の眼は殆んど見えなくなり、右の眼も大変弱っています」
ダリアは黒眼鏡を外《はず》して見たが、左眼《さがん》はまるで茹《ゆ》でたように白くなり、そうでないところは真赤に充血していた。右の眼はやや充血《じゅうけつ》している位でまず無事な方であった。
「全く危いところでしたよ。連日《れんじつ》の努力で、もう身体も頭脳《あたま》も疲れ切っているのです。神経ばかり、高《たか》ぶりましてネ」と理学士も側《そば》へよって来て述懐《じゅっかい》した。彼の眼の色も、そういえば尋常《じんじょう》でないように見えた。
「もすこしで、どうかなるところでしたわ。そうだったら、今日は実験を御覧に入れられませんでしたでしょう」
ダリアは独《ひと》り言《ごと》のように云った。
一同は此の室に何だか唯《ただ》ならぬ妖気《ようき》が漂《ただよ》っているような気がした。
「じゃ、いよいよ働かせて見ます」と深山学士は立ち上った。「白丘さん。カーテンを閉めてすっかり暗室《あんしつ》にして呉《く》れ給《たま》え」
「はい、畏《かしこま》りました」
ダリアは割合《わりあい》に元気に窓のところに歩みよっては、パタンパタンと蝶番式《ちょうつがいしき》にとりつけてある雨戸《あまど》を合わせてピチンと止《と》め金《がね》を下《お》ろし、その内側に二重の黒カーテンを引いていった。窓という窓がすっかり閉ってしまうと、室内には桃色のネオン灯《とう》が一つ、薄ボンヤリと器械の上を照らしていた。隅《すみ》によっていた幾野捜査課長、雁金検事、中河予審判事、帆村探偵、それから本庁の警部一名と刑事が二名、もう一人、事件の最初に出て来た警察署の熊岡警官と、これだけの人間が灯《ひ》の下へゾロゾロと集ってきた。
「これは君、暗いネ」課長はすこし暗さを気にしていた。
「何だか、頭の上から圧《おさ》えられるようだ」そういったのは白髪《はくはつ》の多い中河予審判事だった。
「このネオン灯《とう》も消します。そうしないと巧《うま》く見えないのです」深山が云った。「しかしスウィッチは、ここにありますから、仰有《おっしゃ》って下されば、いつでも点《つ》けます」
「待ってくれ、待ってくれ」と雁金検事が悲鳴《ひめい》に近い声をあげた。「どこに誰がいるやら判らないじゃないか。よオし、諸君はとりあえずこっちに立っていて呉れ給え。僕たちは、この椅子に腰をかけていることにしよう」
幹部だけが、スクリーンを包囲《ほうい》して、椅子に席をとった。
「いいですか」
「いいよ」
パッとネオン灯は消えた。すると一尺四角ばかりのスクリーンの上に、朧気《おぼろげ》な映像があらわれた。
「馬鹿に暗いネ」と課長が云った。
「ピントが外《はず》れているのです。増幅器《ぞうふくき》もまだうまいところへ調整がいっていません。直ぐ直ってきますよ」
なるほど映像はすこし明瞭度《めいりょうど》を加えた。テニスコートの棒くいや審判台らしいものが見える。そこへ人影らしいものが。
「人間が通っているぞ」課長が叫んだ。「早く肉眼で運動場を見せ給え」
「これは、こっちのレンズからお覗《のぞ》き遊ばして……」捜査課長の耳許《みみもと》でダリアの声がした。
「呀《あ》ッ」と課長は慌《あわ》てたが「いやなるほど、よく見えます。――なあーンだ、例の用務員が本当に通ってやがる」
まず赤外線男ではなかったので安心した。
「この辺《あたり》のところですから、さあ誰方《どなた》も変りあってスクリーンを覗いて下さい」理学士が器械から離れながら云った。
「さあ順番に見ようじゃないか」検事が後の方から声をあげた。
ゴトリゴトリと靴音がして、スクリーンの前に観察者が入れ代っているようだった。
「どうも赤外線写真というものは、色の具合が、死人の世界を覗いているようだな」判事さんが呟《つぶや》きながら視《み》ている。
そのとき真暗《まっくら》だった室内へ、急に煌々《こうこう》たる白光《はっこう》がさし込んだ。
「呀《あ》ッ!」
「どッどうしたんだ」理学士が叫んだ。
一つの窓のカーテンが、サーッとまくられたのだった。皆の眼は、この眩《まぶ》しい光に会ってクラクラとした。
「いいえ、何でもないのです。失礼しました」と、窓のところでダリアの声がした。
「困るじゃないか」深山は云った。
「アノちょっと何だか、あたしの身体になんだか触《さわ》りましたのよ。吃驚《びっくり》して、窓をあけたんですの」
「ああ、もう出たかッ――」
「赤外線男!」
「窓を皆、明けろッ!」
そのとき白丘ダリアは朗《ほが》らかな声で云った。
「いいえ、大丈夫ですわ。カーテンを明けてみましたら、帆村さんのお臀《しり》でしたわ。ホホホ」
「なあーンだ」
一座はホッと溜息《ためいき》をついた。
「じゃ早くカーテンを下ろしなさい」
「済《す》みません」
カーテンはパタリと下りた。元の暗闇が帰って来たけれど、皆の網膜《もうまく》には白光が深く浸《し》みこんでいて、闇黒《あんこく》がぼんやり薄明るく感じた。スクリーンの前では雁金検事が、しきりに眼をしばたたいていた。
ウームというような低い呻《うな》り声が聞えたと思った。ドタリ……と、大きな林檎《りんご》の箱を仆《たお》したような音が、それに続いて起った。
素破《すわ》、異変だ!
「どッどうした」
「まッ窓だ窓だ窓だッ」
「ランプ、ランプ、ランプ!」
さーッと、窓から白光《はっこう》が流れこんだ。ネオン灯もいつの間にか点いた。
「キャーッ」と喚《わめ》いてカーテンに縋《すが》りついたのは、窓のところへ駈けよったばかりの白丘ダリアだった。床の上には、幾野捜査課長が土のような顔色をし、両眼《りょうがん》を剥《む》きだし、口を大きく開けて仆れていた。
もう赤外線テレヴィジョンも何もなかった。窓という窓は明け放された。室内の一同の顔には生色《せいしょく》がなかった。
「赤外線男!」
「ああ、あいつの仕業《しわざ》だ」
いまにも自分の身体に、赤外線男の猿臂《えんぴ》[#ルビの「えんぴ」は底本では「えんび」]がムズと触《ふ》れはしないかと思うと、恐ろしい戦慄《せんりつ》が電気のように全身を走った。眼に見えない敵! そいつをどう防げばいいのだ。どうして其《そ》の魔手《ましゅ》から遁《のが》れればいいのだ。
そのとき帆村探偵は、一人進み出て、捜査課長を抱《かか》え起した。課長の頭は、ガックリ前へ垂れた。
「呀《あ》ッ、こりゃ非道《ひど》い!」
帆村は呟《つぶや》いた。幾野課長の頸《くび》の真《ま》うしろに一本の銀鍼《ぎんばり》がプスリと刺さっていた。
一同は吾《わ》れにかえると、赤外線男のことを鳥渡《ちょっと》忘れて、課長の死骸《しがい》の周囲に駈けあつまった。
「延髄《えんずい》を一と突《つ》きにやられている……」
「太い鍼《はり》だッ」
「指紋を消さないように、手帛《ハンケチ》でも被《かぶ》せて抜けッ」
「これは抜けますまい」と帆村が云った。
なるほど、力の強い刑事が引張っても抜けなかった。鍼に筋肉が搦《から》みついてしまったものらしい。
「一体これは、どうして検《しら》べようか」判事が当惑《とうわく》の色をアリアリと現わして云った。
「どうも、相手が悪い」と検事が呟いた。
「赤外線男はそれとして置いて、普通の事件どおり、この部屋の中にいる者は、すっかり取調べることにして下さい」と帆村が云った。
そこで係官が代りあって係官自身と、帆村、深山理学士、白丘ダリアとを調べてみたが、別に怪《あや》しい点は何一つ発見されなかった。
結局、赤外線男の仕業ということが裏書《うらが》きされたようなものだった。流石《さすが》の帆村探偵も手も足も出せなかった。
6
捜査課長の殺害《さつがい》事件は、俄然《がぜん》日本全国の新聞紙を賑《にぎ》わした。それと共に、赤外線男の噂が一段と高まった。警視庁の無能が、新聞の論説となり、投書の機関銃となり、総監をはじめ各部長の面目《めんもく》はまるつぶれだった。
四谷《よつや》に赤外線男が出た。三河島《みかわしま》にも赤外線男が現われたと、時間と場所とを弁《わきま》えぬ出現ぶりだった。尤《もっと》もそれは皆が皆、本当の赤外線男とは思えず、一寸《ちょっと》話を聞いただけで偽《にせ》赤外線男だと看破《かんぱ》出来るようなものもあった。
帆村探偵は、直接に攻撃されはしなかったけれど、内心大いに安からぬものがあった。彼は書斎のソファに身を埋《うず》めると細巻のハバナに火を点けて、ウットリと紫の煙をはいた。彼は元々赤外線男などという不思議な生物があるとは信じていなかった。しかしそれには別に根拠があるわけではなかったのだ。捜査課長の故《こ》幾野氏の惨死《ざんし》事件を考えてみるのに、あれは赤外線男なら勿論《もちろん》出来ることであるが、それと同時にあの部屋にいた人間にも出来ることではないかと思いかえしてみた。
雁金検事、中河判事――この二人は、まず犯人ではないであろう。彼等の本庁に於ける歴史も功績も古く大きいものだ。
警部、刑事も疑えば疑えないこともないが、日頃知っている仲だから先ず大丈夫。
熊岡警官はどうだ。これは始めて会った人ではあるが、Y署では模範警官といわれているから大丈夫だろう。但《ただ》しいろいろと探偵眼のあるところが、平《ひら》警官として多少気に入らないこともないが、一々疑ってはきりがない。
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