理学士の研究室が不可解な襲撃《しゅうげき》をうけたことだった。
これは午前二時前後の出来ごとだったけれど、警視庁へ報告されたのはもう夜明けの五時頃だった。場所が場所であるし、赤外線男の噂《うわ》さの高い折柄《おりから》でもあったので、直《ただ》ちに幾野《いくの》捜査課長、雁金《かりがね》検事、中河予審判事《なかがわよしんはんじ》等、係官一行が急行した。
取調べの結果、判明した被害は、深山研究室の扉《ドア》が破壊せられ、あの有名なる赤外線テレヴィジョン装置が滅茶滅茶に壊《こわ》されているばかりか、室内のあらゆる戸棚《とだな》や引出しが乱雑に掻《か》き廻《まわ》され、あの装置に関する研究記録などが一枚のこらず引裂かれているというひどい有様《ありさま》だった。
襲撃されたところは、もう一ヶ所あった。それは深山研究室に程近い研究所の事務室だった。ここでも同じ様な狼藉《ろうぜき》が行われているのみか、壁の中に仕掛けられた額《がく》のうしろの隠《かく》し金庫が開かれ、現金千二百円というものが盗まれてしまった。
さて当の深山理学士は、当夜《とうや》例のとおり、研究室内に泊っていた筈だが、どうしていたかと云うと、赤外線男のために、もろくも猿轡《さるぐつわ》をはめられ両手を後《うしろ》に縛《しば》られて、室内にあった背の高い変圧器のてっぺんに抛《ほう》りあげられて、パジャマ一枚で震《ふる》えていた。これを発見したのは係官の一行だった。
「この事件を真先《まっさき》に発見したのは、誰かネ」
と幾野捜査課長は、走《は》せ集った研究所の一同を見廻《みま》わしていった。
「儂《わし》でございます」年寄の用務員が云った。「儂は毎晩研究所を見廻わっている役でございます」
「発見当時のことを残らず述《の》べてみなさい」
「あれは午前二時頃だったかと思いますが、見廻わりの時間になりましたので、懐中電灯をもって、夜番《よばん》の室から外に出ようとしますと、気のせいか、どっかで物を壊すようなゴトゴトバリバリという音がします。どうやら深山研究室の方向のように思いました。これは火事でも起ったのかと思い、戸口を開けて闇《やみ》の戸外《そと》へ一歩踏み出した途端《とたん》に、脾腹《ひばら》をドスンと一つきやられて、その儘《まま》何もかも判らなくなりました。大変寒いので気がついてみますと、もう夜は明けかかり、儂《わし》は元の室の土間《どま》の上に転《ころ》がっているという始末《しまつ》。それから駭《おどろ》いて窓から外へ飛び出すと、門衛《もんえい》のいますところまで駈けつけて、大変だと喚《わめ》きましたようなわけです」
「すると、お前が脾腹をやられたとき、何か人の形は見なかったか」
「それが何にも見えませんでございました」
「序《ついで》に聞くが、お前は赤外線男というのを聞いたことがあるか」
「存じて居ります。昨夜のあれは、赤外線男でございましたでしょうか」老人は急に臆気《おくき》がついてブルブル慄《ふる》え出した。
課長は、用務員を下げると、今度は深山理学士を呼び出した。
「昨夜、貴方の襲撃された模様をお話し下さい」
「どうも面目次第《めんぼくしだい》もないことですが」と学士はまず頭を掻《か》いて「何時頃だったか存じませぬが、研究室のベッドに寝ていた私は、ガタリというかなり高い物音に不図《ふと》眼を醒《さま》してみますと、どうでしょうか。室の入口の扉《ドア》の上半分がポッカリ大孔《おおあな》が明いています。これは枕許《まくらもと》のスタンドを点《つ》けて寝るものですから、それで判ったのです。私は吃驚《びっくり》して跳ね起きました。すると、あの赤外線テレヴィジョン装置がグラグラと独《ひと》り手《で》に揺《ゆ》れ始めました。オヤと思う間もなく、装置の蓋《ふた》が呀《あ》ッという間もなく宙に舞い上り、ガタンと床の上に落ちました。私が呆然《ぼうぜん》としていますと、今度はガチャーンと物凄《ものすご》い音がして、あの装置が破裂したんです。真空管《しんくうかん》の破片《はへん》が飛んできました。大きな廻転盤が半分ばかりもげて飛んでしまう。つづいてガチャンガチャンと大きなレンズが壊《こわ》れて、頑丈《がんじょう》なケースが、薪《まき》でも割るようにメリメリと引裂かれる。私は胆《きも》を潰《つぶ》しましたが、ひょっとすると、これはこの装置で見たことのある赤外線男ではないかしらと考えると、ゾーッとしました。見る可《べ》からざるものを視た私への復讐《ふくしゅう》なのではないかしらと思いました。私はソッと逃げ出し、室の隅ッこにでも隠れるつもりで、寝床《ねどこ》から滑《すべ》り下《お》りようとするところを、ギュッと抱きすくめられてしまいました。それでいて身の周《まわ》りには何の異変もないのです。しかし身体の自由は失われて、恐ろしい力がヒシヒシと加わり、骨が折れそうになるので、思わず『痛い、助けて呉《く》れ』と怒鳴《どな》りました。ところがイキナリ、ガーンと頭へ一撃くってその場へ昏倒《こんとう》してしまったのです。それから途中、全然記憶が欠《か》けているのですが、イヤというほど横《よこ》ッ腹《ぱら》に疼痛《とうつう》を覚えたので、ハッと気がついてみますと、私は妙なところに載《の》っているのです。それが先刻《せんこく》、皆さんから降ろしていただいたあの背の高い変圧器の上です。口には猿轡《さるぐつわ》を噛《か》ませられ、手は後に縛られ、立ち上ることも出来ない有様です。下を見ると、これはどうでしょう。奇々怪々な光景が悪夢《あくむ》のように眼に映ります。実験戸棚の扉《ドア》が、風にあおられたように、パターンと開く、すると棚《たな》に並べてあった沢山の原書《げんしょ》が生き物のようにポーンポンと飛び出してきては、床の上に落ちる。引出しが一つ一つ、ヒョコヒョコ脱け出して飛行機の操縦のようなことをすると、中に入っていた洋紙《ようし》や薬品の小壜《こびん》などが、花火のように空中に乱舞する。いやその化物屋敷のような物凄い光景は、正視《せいし》するのが恐ろしく、思わず眼を閉じて、日頃|唱《とな》えたこともなかったお念仏《ねんぶつ》を口誦《くちずさ》んだほどでした」
理学士は、そこで一座の顔を見廻わしたが、憐愍《れんびん》を求めるように見えた。
「それから、どうしたです」課長は尚《なお》も先を促《うなが》した。
「それからです。室内の騒ぎが少し静まると、こんどは、壊《こわ》れた戸口がガタガタと鳴りました。何だか廊下に跫音《あしおと》がして、それが遠のいてゆくように聞えました。すると間もなく、向うの方で大きな響《ひびき》がしはじめました。掛矢《かけや》でもって扉を叩き割るような恐ろしい物音です。それは今から考えてみますと、どうも事務室の入口のように思われました。その物音もいつしか消えて、こんどは又別の、ゴトンゴトンという音にかわり、何となく小さい物を投げつけているように思いましたが、それも五分、十分と経《た》つうちに段々静かになり、軈《やが》て何にも聞えなくなりました。私は赤外線男がまだ此の室へ引返してくるのではないかと、気も魂《たましい》も消し飛ばしてガタガタ慄《ふる》えていましたが、幸《さいわい》にもその後、別に異変も起らず、やっと我れに返ったようなわけでした。いや何と申してよいか、あのように恐ろしいと思ったことはありませんでした」
そういって深山理学士は、大きい溜息《ためいき》をついたのであった。
「君は、そのとき、何か扉《ドア》の閉るような物音をききはしなかったかネ」と課長が尋《たず》ねた。
「そうです。そういえば、跫音《あしおと》らしいものが空虚な反響《はんきょう》をあげて、トントンと遠のくように思いましたが、別に扉がギーッと閉まる音は気がつきませんでした」
「ふふん、それはどうも……」課長は低く呻《うな》った。
「どうでしょうか、ちょっとお尋《たず》ねしますが」と事務員の一人がオズオズと進み出でた。「今の深山《みやま》先生のお話では、赤外線男が、この建物から扉を閉めて出て行った様子がございませんが、そうしますと、赤外線男はまだこの建物の中でウロついているのでございましょうか」
「そりゃ判らんね」と太った刑事が云った。「この辺にウロウロしているかも知れないが、また一方から考えると、赤外線男が建物から出てゆくときにゃ、別に所長さんに叱られるわけではないから、君のように必ず扉をガタンと閉めてゆくとは限らないからナ」
そのとき一人の刑事と何か囁《ささや》き合っていた雁金検事が、捜査課長の肩をつっついた。
「君、一つ発見したよ。この室《へや》の戸棚の隅に大きな靴の跡があったよ」
「靴の跡ですか」
「そうだ。これはちょっと変っている大足だ。無論、深山理学士のでもないし、またこれは男の靴だから、この室《へや》のダリア嬢のものでもない。寸法から背丈を計算して出すと、どうしても五尺七寸はある。それからゴムの踵《かかと》の摩滅具合《まめつぐあい》から云ってこれは血気盛《けっきさか》んな青年のものだと思うよ」
「検事さん、待って下さい」と捜査課長は慌《あわ》て気味《ぎみ》に云った。
「その足跡は果して犯人のでしょうか、どうでしょうか」
「それは勿論《もちろん》、いまのところ戸棚の隅にあったというだけのことさ」
「それにですな、赤外線男というのは、眼に見えない人間なんじゃないですか。その見えない人間が、足跡を残すというのは滑稽《こっけい》じゃないでしょうか」
「しかし君」と検事も中々負けてはいなかった。「深山君の報告によると、赤外線男はこの運動場を人間のような恰好して歩いていたというぞ。してみれば、赤外線男とて、地球の重力《じゅうりょく》をうけて歩いているので、空中を飛行しているわけではない。だから身体は見えなくても、大地《だいち》に接するところには、赤外線男の足跡が残らにゃならんと思うよ」
「足跡が見えるなら、靴も見えたっていいでしょう。すくなくとも、靴の裏は見えたっていいわけです。そこには我々の眼に見える泥がついているのですからネ」
課長と検事とは喋っていながらも、この難問題が自分たちの畠《はたけ》ではないことに気がついた。
「ねえ、君」と検事が鼻に小皺《こじわ》をよせて囁《ささや》くように云った。「これはどうも俺たちの手にはおえないようだよ。第一、知識が足りない」
「そうですヨ」と課長も苦笑した。
「仕方がないから、これは一つ例の男を頼むことにしてはどうかネ。帆村荘六《ほむらそうろく》をサ」
「帆村君ですか。実は私も前からそれを考えていたのです」
二人の意見は直ぐに纏《まとま》った。そして新《あらた》に呼び出されるべき帆村荘六という男。これはご存知の方も少くはないと思うが、素人探偵として近頃売り出して来た青年で、科学の方面にも相当明るいという人物だった。
こうして取調べも一と通り終り、報告書も作られたけれど、直接の被害の中にとうとう洩《も》れてしまった一つの重大なる品物があった。それは深山理学士が戸棚の中に秘蔵《ひぞう》していた或る品物だったが、彼はそれを係官に報告しなかった。それは決して忘れたわけではなくて、故意《こい》に学士の心に秘《ひ》めたものと思われる。一体、その品物はどんなものだったか。
とにかく深山学士研究室の襲撃事件によりて、赤外線男の生態《せいたい》というものが、大分はっきりしてきた。
5
帆村探偵を交《ま》ぜた係官の一行が、深山理学士の研究室を訪ねたのは、新しい赤外線テレヴィジョン装置が出来上ったという其《そ》の日の夕刻のことだった。折角《せっかく》作った一台は、無惨《むざん》にも赤外線男の破壊するところとなり、学士も助手の白丘《しらおか》ダリアも大いに失望したが、その筋《すじ》の希望もあって、二人は更《さら》に設計をやり直し、新しい装置を昼夜兼行《ちゅうやけんこう》で組立てたのだった。白丘ダリアは、この事件以来というものは、住居《じゅうきょ》
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