けど、伯父が呼ばれたんで、あたしも附いてこいというので行ってたんです。伯母《おば》さんが一週間ほど前に行方不明になったんで、そのことで行ったんですよ。随分《ずいぶん》この事件、面白いのよ。ひとには云えないことなんです、ですけれど……」
 ひとには云えないといいながら、白丘ダリアは、それこそ油紙に火がついたようにベラベラ事件を喋《しゃべ》り出した。
 簡単に云うと、失踪《しっそう》した伯母さんというのは二十六歳になるひとだった。伯父との仲も大層よかったのに、一週間ほど前に急に行方不明になってしまった。遺書でもないかと調べたが、何一つ書きのこされていなかった。全く原因が不明だった。
 例の身許《みもと》の知れぬ轢死《れきし》婦人のことも、一度は問題になったが、着衣も所持品も違っていた。といって外《ほか》に年齢の点で似合わしき自殺者もなかった。生か死かも判然しなかった。伯父は捜索につかれ切って半病人になってしまった。そこへ警視庁から重《かさ》ねての呼び出しが来たので今朝、姪《めい》のダリアを介添《かいぞ》えに桜田門《さくらだもん》へ行ったというのだ。
 本庁では、伯父に対して、どんな些細《ささい》なことでもよいから、夫人について腑《ふ》に落ちかねることが今までにあったならそれを話してみろということだった。
 伯父は暫く考えていたが、ポンと膝を打った。
「そういえば思い出しましたが、妻《あれ》の居るときに、妙な質問を私にしたことがありましたよ。江戸川乱歩《えどがわらんぽ》さんの有名な小説に『陰獣《いんじゅう》』というのがありますが、あの内容《なか》に紳商《しんしょう》小山田夫人《おやまだふじん》静子《しずこ》が、平田《ひらた》一郎という男から脅迫状《きょうはくじょう》を毎日のように受けとる件があります。その脅迫状の内容というのは、小山田氏と静子夫人の夫婦としての夜の生活を、非常に詳細《しょうさい》に書き綴《つづ》ってあるのです。それは夫妻ならでは絶対に知ることのない内緒《ないしょ》ごとでした。それにも係《かかわ》らず、平田一郎という陰険《いんけん》な男は、一体どこから見ているのか、実に詳《くわ》しく、実に正確に、夫婦間の秘事《ひじ》を手紙の上に暴露《ばくろ》してある。――この脅迫状のことを、私の妻が突然話題にしたのです。江戸川さんの小説では、この気味の悪い手紙の主は、実は平田とかいう男ではなくて、小山田夫人静子その人だった。夫人の変態性《へんたいせい》がこの手紙を書かせ、夫との夜の秘事に異常な刺戟《しげき》を与えたというのでした。――私の妻《あれ》は、最後にこんなことを訊《き》いたことを覚えています。『このような脅迫状が、静子さん自身の手によって書かれたわけなら、静子さんは別に何とも恐ろしくはなかった筈《はず》です。しかしもしあの手紙が、本当に見も知らない人の手によって書かれたものだったとしたら、静子夫人の駭《おどろ》きは、どんなだったでしょうね』と、まアこんな意味のことを云ったことがあります。私は莫迦《ばか》なことを云いだす奴じゃのうと、笑ってやったんです。しかし今となって思えば、あれも失踪の謎をとく一つの鍵のような気がしてなりません」
 係官は、伯父の話に大変興味を持ったようだった。二人がもう席を立とうというときに一人の警官が円《まる》い小箱《こばこ》をもって来て、これに何か見覚えがないかと差し出した。それは茶色の硝子屑《ガラスくず》のようなものであった。勿論《もちろん》二人には思いもよらぬ品物だった。
「こんなになっているから判らないかもしれないが」と其の警官が云った。「これは映画のフィルムなんですよ。しかもそのフィルムが燃焼《ねんしょう》を始めたのを急にもみ消したとでも云いましょうか、フィルムの燃え屑なのです。それでも心当りがありませんか」
 それは二人にとって更《さら》に見当《けんとう》のつかないことだった。話はそれまでとなって、白丘ダリアと伯父とは、警視庁を辞去《じきょ》した、というのであった。
「一体その伯父さんというのは、何という方なのかネ」学士が尋《たず》ねた。
「黒河内尚網《くろこうちひさあみ》という是《こ》れでも子爵《ししゃく》なのですよ。伯母の子爵夫人というのは、京子といいました」
「黒河内京子――君の伯母さんか」
「先生、伯母をご存知ですの」
「なアに、知るものかネ」学士は強く首を左右に振った。「さあ、今日は遅れたから、急いで組立てにとりかかろう」
 そういって深山理学士は実験衣を拾いあげると、洋服の袖《そで》をとおした。そのときポケットから、四角い封筒がパラリと床の上に落ちたのを、学士は気付かなかった。
 ダリアの眼は悪戯者《いたずらもの》らしく爛々《らんらん》と輝いた。太い腕が、その封筒の方へニューッと延びていった。


     4


「赤外線男《せきがいせんおとこ》というものが棲《す》んでいる!」
 途方《とほう》もない「赤外線男」の存在を云い出したのは、外《ほか》ならぬ深山《みやま》理学士だった。それは苦心の赤外線テレヴィジョン装置が組上ってから二日ほど後のことだった。
 大胆《だいたん》といおうか、気が変になったといおうか、深山理学士の発表に駭《おどろ》いたのは、学界の人達ばかりだけではなかった。逸早《いちはや》く帝都の諸新聞紙はこの発表をデカデカの活字で報道したものだから、知ると識《し》らざるとを問わず、どこからどこの隅々《すみずみ》まで、一大センセイションが颶風《ぐふう》の如く捲《ま》きあがった。
「赤外線男というものが棲《す》んでいるそうだ」
「そいつは、わし等の眼には見えぬというではないか」
「深山理学士の何とかという器械で見ると、確かに見えたというではないか」
 などと、人の噂は千里を走った。
 なにが「赤外線男」だ?
 深山理学士の言うところによれば斯《こ》うだ。
「予《よ》はかねて学界に予告して置いた赤外線テレヴィジョン装置の組立てを、此《こ》の程《ほど》完成した。これは普通のテレヴィジョンと殆んど同じものだが、変っている点は、赤外線だけに感ずるテレヴィジョンで、可視光線は装置の入口の黒い吸収硝子《きゅうしゅうガラス》で除いて、装置の中には入れない。だから徹頭徹尾《てっとうてつび》、赤外線しか映らないテレヴィジョンである。
「予はこの装置の完成するや、永い間の欲望を何よりも早く達したいものと思い、装置を使って、研究所の運動場の方向を覗《のぞ》くことにした。折から夕刻だった。肉眼では人の顔も仄暗《ほのくら》くハッキリ見別けのつかぬような状態であったが、この赤外線テレヴィジョンに映るものは、殆んど白昼《はくちゅう》と変らない明るさであった。それは太陽の残光《ざんこう》が多量の赤外線を含んで、運動場を照しているせいに違いなかった。勿論画面の調子から云って、吾人《ごじん》が既に充分に知っている赤外線写真と同じで、たとえば樹々の青い葉などは雪のように真白《まっしろ》にうつって見えた。なんという驚くべき器械の魅力《みりょく》であるか。
「しかしこれは真の驚きではなかった。後になって予を発病に近いまでに驚倒《きょうとう》せしめるものがあろうとは、今日の今日まで考えたことがなかった。それは実に、吾人がいまだ肉眼で見たことのなかった不思議な生物が、この器械によって発見されたことである。それは確かに運動場の上をゴソゴソと匍《は》いまわっていた。予は眼のせいではないかと、器械から眼を離し、肉眼でもって運動場を見たが、そこにはその影もない。これはと思って、赤外線テレヴィジョン装置を覗《のぞ》いてみると、確かに運動場のテニスコートの棒ぐいの傍に、動いているものがあるのだ。その内に、彼《か》の生き物は直立《ちょくりつ》した。それを見ると驚くべし、人間である。しかも日本人の顔をした男である。背は相当に高い。がっちり肥《こ》えている。なんか真黒な洋服を着ているようだ。鳥渡《ちょっと》悪魔のような、また工場の隅から飛び出してきた職工のような恰好である。それほどアリアリと眺《なが》められる人の姿でありながら、一度元の肉眼《にくがん》にかえると、薩張《さっぱ》り見えない。赤外線でないと一向に姿の見えない男――というところから、予はこの生物に『赤外線男』なる名称をつけたいと思う。
 しかし残念なことに、やがてこの『赤外線男』はこっちに気がついたものと見え、キッと歯をむいて怒ったような顔をしたかと思うと、ツツーっと逸走《いっそう》を始めた。そしてアレヨアレヨと云う裡《うち》に、視界の外に出てしまった。駭《おどろ》いてテレヴィジョン装置のレンズを向け直したが、最早《もはや》駄目だった。しかし兎《と》も角《かく》も、予は初めて『赤外線男』の棲《す》んでいることを知った。われ等人間の肉眼では見えない人間が棲《す》んでいるとは、何という駭《おどろ》くべきことだ。そしてまア、何という恐ろしいことだ」
 深山《みやま》理学士の発表は、大体こんな風の意味のものだった。
「赤外線男」という名詞で、一つの流行語になってしまった。帝都の市民は、この「赤外線男」が今にも自分の身近《みぢ》かに現われるかと思って戦々恟々《せんせんきょうきょう》としていた。
 そのうちに、ボツボツ「赤外線男」の仕業《しわざ》と思われることが、警視庁へ報告されて来るようになった。
 郊外の文化住宅の卓子《テーブル》の上に、温く湯気《ゆげ》の立ち昇る紅茶のコップを置かせてあったが、主人公がさア飲もうと思ってその方へ手を出すと、これは不思議、紅茶が半分ばかり減っていた。これはきっと「赤外線男」が忍びこんでいて、グーッとやったんだろうというような話もあった。
 ギンザ、ダンスホールの夜更《よふ》け。ジャズに囃《はや》されて若き男と女とが踊り狂っている。そのときアブれて、壁際《かべぎわ》の椅子にしょんぼり腰をかけていた稍々《やや》年増《としま》のダンサーが、キャーッと悲鳴をあげると何ものかを払いのけるような恰好をし、駭《おどろ》いてダンスを止《や》めて駈けよる人々の腕も待たず、パッタリ床の上に仆《たお》れてしまった。ブランデーを与えて元気をつけさせ、さてどうしたのかと尋《たず》ねてみると、彼女が椅子にかけているとき、何者とも知れず急にギュッと身体を抱きすくめた者があったというのだ。目を瞠《みは》っているが、人影も見えない。それなのに、ヒシヒシと肉体の上に圧力がかかってくる。これは赤外線男に抱きつかれたんだと思うと急に恐ろしくなって、あとは無我夢中《むがむちゅう》だったという。――何が幸《さいわい》になるか判らないもので、「赤外線男」に抱きつかれたダンサーというので、いままでアブれ勝《が》ちだったのが急に流行《はやり》っ児《こ》になって、シートがぐんぐん上へ昇っていった。
 こうなると何事も、暗闇《くらやみ》だからといって安心してするわけにはゆかなかった。何時《いつ》赤外線男にアリアリと覗《のぞ》かれてしまうか知れなかったのである。
 これに類する報告は、日一日と殖《ふ》えていった。しかし赤外線男のすることが、この辺の程度なら、それは悪戯小僧《いたずらこぞう》又は軽い痴漢《ちかん》みたいなもので、迷惑ではあるけれど、大して恐ろしいものではない。いやひょいとすると、それ等の小事件は赤外線男に対する疑心暗鬼《ぎしんあんき》から出たことで、本当の赤外線男の仕業ではないのじゃないか。或いは赤外線男といわれるものも、深山理学士の錯覚《さっかく》であって始めから赤外線男なんて、居ないのじゃないか。こんな風に、赤外線男に対する期待|外《はず》れを口にする人も少くはなかった。
 だがしかし「赤外線男」否定党が大きな顔をしていられるのも、永い時間ではなかった。ここに突如《とつじょ》として赤外線男の魔手《ましゅ》は伸び、帝都全市民の面《おもて》は紙のように色を喪《うしな》って、「赤外線男」恐怖症《きょうふしょう》に罹《かか》らなければならなくなった。――それは赤外線男発見者の深山
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