前|英国《えいこく》で、列車大衝突《れっしゃだいしょうとつ》の大椿事《だいちんじ》をひきおこしたことがあったが、そのときのぶっつけた方の運転士は、色盲《しきもう》だったことが後に判明して、無期懲役の判決をうけたのが無罪になった。人間の視力なんて、まことに不思議なものであり、又デリケートなものである。そして紫から赤までしか見えないなんて、貧弱きわまる視力ではある。
話が色盲の方へ道草をしてしまったが、この赤外線という光線は、人間の眼に感じないとされているだけに、秘密の用をつとめるとて、重宝《ちょうほう》されている。甲賀三郎《こうがさぶろう》氏の探偵小説に「妖光《ようこう》殺人事件」というのがあるが、それに赤外線を用いた殺人法が述《の》べられている。それは赤外線警報器を変形したもので、殺そうという人の通路に赤外線を左の壁から右の壁へ、噴水《ふんすい》を横にとばしたように通して置くのだ。右の壁の中には光電管といって赤外線を感ずる真空管のようなものが秘密に仕掛けてある。人の通らぬときは、赤外線がこの光電管に入って電気を起こし、ピストルの引金をひっぱろうとするバネを動かないように止めている。ところがもしこの廊下に人が通って赤外線を遮《さえぎ》ると、どうなるかというのに、赤外線は人体で遮られ、光電管には今まで流れていた電気がハタと止るから、従ってピストルの引金を動かないように圧《おさ》えていた力がぬけ、即座《そくざ》にズドンとピストルが発射され、その人間を斃《たお》す……という中々面白い方法だ。赤外線だから、その被害者の眼に見えなかったので、仕方がない。
満洲の重要な橋梁《きょうりょう》の東|橋脚《きょうきゃく》から西橋脚の方へ向け、この赤外線を通し、西の方に光電管をとりつけ、光電管から出る電気で電鈴《でんれい》の鳴る仕掛《しか》けを圧《おさ》えておく。若《も》し匪賊《ひぞく》が出て、この橋脚に近づき、赤外線を遮《さえぎ》ると、直ちに光電管の電気が停るから、電鈴を圧えていた力は抜け、電鈴はけたたましく匪賊|襲来《しゅうらい》を鳴り告げる。これも赤外線が見えないところを利用したものである。
深山《みやま》理学士の研究問題は、この不可視光線《ふかしこうせん》と呼ばれる赤外線が人間にも見える装置を作ることにあった。彼は、これを近頃流行のテレヴィジョンに組合わすことに眼をつけた。
テレヴィジョンは、実験室に居て、その映写幕の上へ、例えば銀座街頭《きんざがいとう》に唯今現に通行している人の顔を見ることが出来るという器械だ。これが室内の様子を見るとなると、写真撮影場で使うような眩《まぶ》しい電灯を点じ、マネキン嬢の顔を強照明《きょうしょうめい》することによって、実験室でその顔を見ることが出来る。これが普通のテレヴィジョンであるが、それを赤外線で照らすことにし、この実験室にうつし出そうというのである。
深山理学士は、あの奇怪な轢死《れきし》婦人事件のあった日と前後して、この装置の製作にとりかかった。
それは丁度《ちょうど》新学期であった。この研究所内も上級の大学生や、大学院学生、さては助手などの配属の変更があって、ゴッタがえしをしていた。
赤外線研究の彼の仕事も、従来は助手も置かず唯一人でやっていたが、今度は赤外線テレヴィジョン装置を作ったり、ロケーションにゆかねばならなくなることも判り切っていたので、助手が一人欲しいと予算を出したところ、元来《がんらい》経済難のZ大学なので、助手案は一も二もなく蹴飛《けと》ばされたが、その代り大学部三年の学生で、是非《ぜひ》赤外線研究をやりたいというひとがいるから、助手がわりにそれを廻そう、当分我慢して、それを使えという所長からの話であった。
それは四月のたしか十日か十一日の午前九時ごろだった。深山理学士の研究室を外からコツコツとノックするものがあった。
「ちょっと待って下さい」
学士は室内から声をかけた。
五分ほど経って、学士はやっと戸口に近づいた。
「まだ居ますか?」
と妙《みょう》な、そしてどっちかというと失礼きわまる質問の言葉を、扉《ドア》を距《へだ》てて向うへ投げかけた。――学士の出てくるのに痺《しび》れをきらして帰ってゆく人も多かったので、こういうのが学士の習慣だった。人を待たすことに一向|頓着《とんじゃく》しないのも有名なる学士の習慣だった。
「はア――」
というような返辞《へんじ》と、カタリと靴の鳴る音が、扉《ドア》の彼方《あっち》でした。
学士はそこで渋々《しぶしぶ》とポケットから鍵を出すと戸口の鍵孔《かぎあな》に入れ、ガチャリと廻して扉を開いた。そこには思いがけなくもピンク色のワン・ピースを着た背の高い若い婦人が立っていた。
「あ――」
「深山先生でいらっしゃいましょうか」若き女性は云った。
「そうです、深山ですが……」
「あたくし、理科三年の白丘《しらおか》ダリアです。先生のところで実習するようにと、科長《かちょう》の御命令で、上りましたのですけれど」
「ああ、実習生。――実習生は、君だったんですか。じゃ入りなさい」
男の学生だと思っていたのに、やって来たのは、意外にも女学生だった。しかし何という逞《たく》ましい女性なんだろう。近代の女性は、スポーツと洋装とのお蔭で、背も高くなり、四肢《しし》も豊かに発達し、まるで外国婦人に劣らぬ優秀な体格の持ち主になったという話だったが、それにしてもこの健康さはどうだ。これが女性というものなんだろうか。深山理学士は早くもこのピンク色の物体が発散《はっさん》するものに当惑《とうわく》を感じた。
「ダリアという名前だが」と学士は訊《たず》ねた。
「失礼ながら君は混血児なのかい」
「まあ、いやな先生!」彼女は仰山《ぎょうさん》に臂《ひじ》を曲げ腰をゆがめてカラカラと笑った。「これでも日本人としては、純種《サラブレッド》ですわヨ」
「純種《サラブレッド》か! イヤ僕は、君があまりにデカイもので、もしやと思ったんだよ」
「先生は、小さくて可愛いいんですのネ」彼女は肥った露《あらわ》な二の腕を並行にあげて、取って喰うような恰好《かっこう》をしてみせた。
そんなことから、先生の深山理学士と生徒の白丘ダリアとは、何でもずかずかと云い合う間柄《あいだがら》になった。しかしこの少女が、まだ十八歳であるとは、学士の容易に信じかねるところであった。
赤外線研究室は、この先生と生徒とによって、昼といわず夜といわず、乱雑にひっかきまわされた。精密な部分品が、さまざまの実験を経《へ》て一つ又一つと組立てられていった。二人の熱心さは大変なものだった。入口の扉《ドア》にはいつものように鍵がかかっていた。食事を搬《はこ》んでくるときと、白丘ダリアが夜更《よふ》けて自分の住居へ帰るときの外は、滅多《めった》に開《ひら》かれはしなかった。深山理学士は独り者の気楽さで、いつもこの研究室に寝泊りしていた。
「アラ先生、まあ面白いことを発見しましたわ」ネジ廻しを握って、器械のパネルに木ネジをねじこんでいたダリアが、頓狂《とんきょう》な声を張りあげた。
「どうしたんだい」深山学士は増幅器《ぞうふくき》の向うから顔を出した。
「とても面白いですわ。先生のお顔を右の眼で見たときと左の眼で見たときと、先生のお顔の色が違うんですわ」
「変なことを云い出したネ」学士は自分の顔色のことを云われたので鳥渡《ちょっと》いやな顔をした。
「右の眼で見たときよりも、左の眼で見たときの方が、先生のお顔が青っぽく見えますのよ」
「なアーんだ、君。色盲じゃないのか。ちょっとこっちへ来て、これを見給え」
学士はダリアを引っぱって、色盲検査図の前につれて来た。それは七色の水珠《すいじゅ》が、円形《えんけい》に寄りあっているのだが、色の配列具合によって、普通の視力をもっているものには「1」という数字が見える場合にも、色盲には「4」と見えたりするという簡単な検査図だった。ダリアの眼を、片っぽずつ閉《と》じさせて、沢山ある検査図を色々とめくって調べてみた。しかし結果はどういうことになったかというのに、ダリアは色盲ではないということが判明したのだった。
「色盲でも無いようだが……気のせいじゃないか」
「いいえ、気のせいじゃないわ。先生がどうかしてらっしゃるんじゃなくって?」
「莫迦《ばか》云っちゃいかん。君の眼が悪いのだよ。説明をつけるとこうだ。いいかい。君の右の眼と左の眼との色の感度がちがうのだ。今の話だと、君の左の眼は、青の色によく感じ、右の眼は赤の色によく感ずる。両方の眼の色に対する感覚がかたよっているんだ。それも一つの眼病《がんびょう》だよ」
「そうでしょうか、あたし困ったわ」と白丘ダリアは一向困ったらしい様子も見せずに云った。「ンじゃ先生、あたしが今|視《み》ている右の眼の風景と、左の眼の風景と、どっちの色の風景が本当の風景なんでしょうか。どっちかの眼が本当のものを見て、どっちかの眼が嘘を視ているのですね」
「そりゃ困った質問だ」と今度は深山理学士の方が本当に弱ってしまった。「どうも君の網膜《もうまく》のうしろに僕の眼をやってみることも出来ないからネ」
そういって理学士は考え込んだ。
こんな調子で、二人はいつの間にか十年の知己《ちき》のようになってしまった。
白丘《しらおか》ダリアの入所後《にゅうしょご》はやくも五日のちには、赤外線テレヴィジョン装置がもう一と息で出来上るというところまで漕《こ》ぎつけた。
ところが其《そ》の朝に限って、いつもなら午前七時には必ず出てくる筈《はず》の白丘ダリアが、十時になっても姿を現わさなかった。学士は一人でコツコツと組立を急いでいたけれど、十一時になると、もう気力《きりょく》が無くなったと見え、ペンチを機械台の上に抛《ほう》り出してしまった。
(どうして、白丘は出てこないんだろう?)
いろいろなことが、追懐《ついかい》された。何か本気で怒り出したのであろうか。それとも病気にでもなったのであろうか。考えているうちに、自分があの女学生に、あまりに頼《たよ》りすぎていたことに気がついた。ひょっとすると、自分はもうあの少女の魔術にひっかかって、恋をしているのかも知れない。
(莫迦《ばか》なッ。あんな小娘に……)
彼は身体を一とゆすりゆすると、実験衣のポケットへ、両手をつっこんだ。ポケットの底に、堅いものが触れた。
「ああ、桃枝《ももえ》から手紙が来ていたっけ」
今朝、用務員が門のところで手渡してくれた四角い洋封筒をとりだした。発信人は「岡見桃助《おかみとうすけ》」と男名前であるが、それは桃枝の変名であることは、学校内で学士だけが知っていた。開いてみると、どうやらそれは彼女の勤めているカフェ・ドランの丸|卓子《テーブル》の上で書いたものらしく、洋酒の匂いがしていた。文面は想像のとおり、彼の訪ねて来ないことを大変|寂《さび》しがっていること、今夜にでも店の方にでも、それともどっかで電話をかけて呼んで呉れれば直ぐ飛んでゆくからというような、当人達でなければ読んでいるに耐《た》えないような文句が縷々《るる》として続いていた。桃枝は学士の内妻《ないさい》に等しい情人《じょうじん》だった。彼は手紙を畳《たた》むと、ポケットへねじこんだ。
(今日はいっそのこと、仕事をよして、これから桃枝を引張り出しにゆこう)
深山《みやま》理学士が実験衣を脱いで、卓子《テーブル》の上へポーンと抛《ほう》り出したときに、廊下にコツコツと聞き覚えた跫音《あしおと》がして、白丘ダリアがやって来た。
「先生、先生」
扉《ドア》をあけてやると、ダリアは兎《うさぎ》のように飛びこんできた。
「先生|済《す》みませんでした。急用が出来たものですから……」
「一体どうしたというのです」深山理学士は桃枝のことなんか一時に吹きとばすように忘れてしまって、真剣な面持《おももち》で聞いた。
「警視庁から呼ばれて、ちょっと行ったんですけれど……」
「なに、警視庁へ」
「あたしのことじゃないんです
前へ
次へ
全10ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング