って拳銃《ピストル》をとりあげようとはしなかった。若《も》しあの場合、彼女も射撃を始めたとしたら、必ずのっぴきならぬ証拠が出来る筈だった。それはあの色とりどりの円い標的の間に残る白い余白には、あの裏面から赤外線で照明している深山《みやま》の別個の標的があったのだ。彼女は赤外線も赤い色も判別する力はない。それは赤外線も、吾々が赤を識別できると同様、アリアリと眼に映《うつ》るからだ。しかし彼女は危険を感じて、吾々の眼には見えない赤外線標的を撃つことから脱《の》がれた。しかし射撃を拒《こば》んだということが、僕の予想を大いに力づけて呉れる効能《ききめ》はあった。
さて、最後のトリック――それには鬼才《きさい》ダリア嬢も見事に引っ懸ってしまった。それはすこし下卑《げび》た話だ。けれども、あの便所の一件だ。例のフィルムの映写中に彼女は激しい尿意《にょうい》を催《もよお》したのだった。それは勿論、すこし前に食堂で彼女が飲んだオレンジ・エードに、一服盛ってあったというわけサ。映画が終るや否《いな》やダリア嬢は気が気でなく廊下へ飛び出した。もうこれ以上我慢をすると、女の身にとって顔から火の出るような粗相《そそう》を演ずることになる。彼女は極度に狼狽《ろうばい》していたのだ。暗い廊下の向うを見ると、嬉しやそこには『便所』と書いた赤い灯《あかり》がついている。彼女は扉《ドア》を押して飛びこんだ。果してそこには奥深く便器が並んでいた。彼女は用を足した。しかし茲《ここ》に彼女は、とりかえしのつかない大失敗をしたのだった。
それは、この『便所』と書いた赤い灯《あかり》は、普通の視力をもった人間には、到底《とうてい》発見することの出来ない光だったのだ。つまり赤外線灯で『便所』という文字を照していたのだ。吾々のようなものならば、その前を無造作《むぞうさ》に通りすぎてしまう筈だった。赤外線の見える女の悲しさに、ダリア嬢はついそのような灯の下をくぐってしまったのだ。その場の光景は予《かね》て張番をさせて置いた監視員によって、すっかり見とどけられてしまった。とうとう異常な視力の持ち主は化の皮を剥がれてしまったのだ。流石《さすが》のダリア嬢もこうなっては策の施《ほどこ》しようもなく、とうとう一切を白状してしまった。『赤外線男』――いや『赤外線女』の事件は、ざっとこんな風だった」
底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
1933(昭和8)年5月号
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2002年10月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全10ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング