霊実験会の多くの実例によって、判ってきたのだった。そのことは一層、漢青年を脅《おびや》かした。彼は、京浜国道《けいひんこくどう》を六十|哩《マイル》のスピードで走っていて、時々通行人を轢《ひ》いたり、荷車に衝突して自分も相当の怪我をしたことが何回もあったことを顧《かえり》みて慄然《りつぜん》とした。ひょっとすると、あのうちのどの事件かで以て、自分は既に死んでしまったのではなかったか。
 そうした不安が、心の片隅に咲きだすと、見る見るうちに空を蔽《おお》う嵐雲《らんうん》のように拡がっていった。彼は異常の興奮に発汗《はっかん》しながら、まず胸部を抑《おさ》えるのだった。それから、幅の広い帯を探し、臀部《でんぶ》を撫《な》で、頭髪《かみ》に触れてみた。もしや指の先に、大竹女史の身体が触ったなら、そのときは万事休すといわなければならない。
 いやいや、霊媒《メディウム》は、大竹女史に限ったことはないのだ。中には、男の霊媒もあることだった。どの霊媒を通じて、自分の霊魂が、娑婆《しゃば》を訪問するかもしれない。そう思うと、居ても立っても居られなかった。このごろでは自動車の運転も控え目にして、温和《おとな》しく、閉籠《とじこも》っている自室を出ると孫を呼んで、自分が生きているかどうかを、尋《たず》ねてみた。
 孫の言葉だけでは物足りないときは、マリ子を呼んで、身体の一部に触《さわ》らせた。それでも自信が得られないときは、気が変になったようになって、深夜《しんや》の街を彷徨《ほうこう》し、逢う人逢う人に、自分が生きているかどうかを判定してくれるように頼むのだった。人々は誰もこの男を同情したり、恐ろしがったりした。
 帆村探偵との出会《であい》も、その発作中《ほっさちゅう》の出来事だった。
 だが、その内に、いよいよ本当の運命の日が来てしまった。
 ハッキリした記憶はない。何年何月何日だったかも知らない。漢青年が不図《ふと》眼を醒《さ》ますと、彼は見慣れぬ寝床《ねどこ》に睡っていたことを発見したのだった。明るい屋根の下の室《へや》だった。グルリと見廻わすと、五間四方位の室だった。室内の調度は……。
「おおッ」
 と彼は叫んだ。よく見ると、いちいち、古い記憶のある調度ばかりだった。鶯色《うぐいすいろ》の緞子《どんす》の垂幕《たれまく》、「美人戯毬図《びじんぎきゅうず》」とした壁掛《かべが》けの刺繍《ししゅう》、さては誤って彼が縁《ふち》を欠《か》いた花瓶までが、嘗《かつ》て覚えていたと同じ場所に、何事もなかったかのように澄しかえって並んでいたのだった。すると、この室は?
「これは、故郷の杭州に建っている鳴弦楼《めいげんろう》だ。少年時代に遊びくらした部屋ではないか、おお、あすこには、懐《なつか》しい小窓《こまど》がある。あの外には絵のように美しい西湖《せいこ》が見えるのだ。見たい、見たい、生れ故郷の西湖を!」
 漢青年はムックリ起きようとして、ハッと顔色をかえた。手が無い、足も無いのだ。いや身体全体が無いのだ。「おお、これはどうしたことだ」
 彼は、気が変になったようになって、あたりを見廻した。室内の光景に、不思議はなかった。そして、いや、あった。あった。寝床の上に、彼の足が、長々と横たわっていた。胴もある。おお、手も見えるではないか。
 彼は、再び起きようと試みた。
 だが、驚いたことに、眼でみると、そこに在るに違いない手だの脚だのが、動かそうとなると、俄《にわ》かに消えてなくなったように感じられるのだ。言葉を変えていうと、全身にすこしも知覚が無いとでも言おうか、いや、それとも少し違うようだ。
 気がつくと、枕頭《まくらもと》に人間が立っている。見ると一人ではない。三人だった。
 その顔には、覚えがあった。中国服に身を固めた孫火庭と王妖順だった。もう一人はピカピカする水色の絹で拵《こしら》えた婦人服のよく似合うマリ子だった。
「これは一体何事だい」
 と漢青年は呶鳴《どな》った。
「貴方様は、遂《つい》に亡《な》くなられました」
 と孫が、いつになく穏《おだや》かな口調《くちょう》で云った。
「莫迦《ばか》を云うな。お前達がよく見えている」
「貴方様はお気付になりませんか」孫は顔を一尺ほどに近づけて云うのだった。「貴方様は京浜国道で、自動車を電柱に衝突なさいまして、御頓死《ごとんし》遊ばしましたのですぞ。貴方様は幽界《ゆうかい》にお入りになって、唯今《ただいま》から幻影《げんえい》を御覧になっています。われわれも、貴方様の霊のうちにのこる一個の幻影にすぎません。お疑いならば、お手をお触れ下さい」
 そう云って孫は、漢青年の手をとった。彼は自分の手がスウと持上って、孫火庭の身体を撫でているのを見た。しかし孫がそこにいることは、全く感ぜられなかった。青年は唇を噛んだ。
「御覧遊ばしませ。王もマリ子も、貴方様の幻想につれて、これから御意のままの御仕《おつか》えを致すでございましょう。それからあの小窓から、外をお眺めなさいませ、楚提《そてい》が長く連《つらな》っているのが見えます」
 漢青年は、気がつくと、いつの間にか窓辺《まどべ》によっていた。そこから、西湖《せいこ》の風光が懐しく彼の心を打った。こうして、漢青年の幻想生活が始まった。
 彼は、思い出したように食事をした。死んだものが食事をするとは、変ではないかと考えた。
「それは幻影だ。食事は永い間の習慣だ。そのような種類の幻影は、中々消えるものではない」どこかで、そう囁《ささや》く者があるようだった。
 漢青年は、幻影を自由に楽しんだ。殊《こと》に彼にとって好ましかったのは、マリ子を傍近く呼んで、他愛のない話をしたり、その果《はて》には思切った戯《たわむ》れを演じてみるのだったが、マリ子はどんなひどいことにも反抗しないで、あらゆる彼の欲するところに従った。反抗のない生活――そこにも漢青年は、幽界《ゆうかい》らしい特徴を発見した。
 だが、それにも倦《あ》きてくると、彼はあらゆるものに注意を向けた。ことに彼を喜ばせたものは、音響だった。どんな微《かす》かな音響であっても、彼は見遁《みのが》すことなく、その音響が何から来るものであるかについて、考えるのが楽しみになった。ことに、どうしたわけか、この楼台《ろうだい》が震動すると共に起る音響に対して、興味がひかれたのだった。うっかりしているときには、それを東京時代に経験した自動車の警笛《けいてき》のように聞いたり、或いは又、お濠《ほり》の外に重いチェーンを降ろす浚渫船《しゅんせつせん》の響きのようにも聞いた。しかし、のちになって、それと気がつき、苦笑がこみあげてくるのだった。この杭州の片田舎に、円タクの警笛の響きもないものである。
 そのうちに彼は、知覚のまるで無い他人の手足のような四肢を、意のままに少しずつ動かすことを練習にかかった。それは彼の視覚の援助によって段々と正確に動いて行った。それは非常に大きい喜びに相違なかったのである。
 この調子で身体がうまく動くようになったら、彼は何に措《お》いても、この天井の硝子《ガラス》板をうち破り、その孔《あな》から、楼上《ろうじょう》へ出てみたいと思った。そして広々としたあたりの風景を見るときのことを考えて、どんなに嬉しいだろうかと、胸をわくわくさせたのだった。
 ところが或日のこと、漢青年は困ったことに出逢ってしまった。それは不図《ふと》彼が、生前|痔疾《じしつ》を病んだことを思い出したのだった。気をつけていると、寝具《しんぐ》や、床の上までもその不快な血痕《けっこん》が、点々として附着しているのを発見した。
 彼は驚いて、マリ子の幻影を呼ぶと、患部《かんぶ》を拭《ぬぐ》わせた。彼女の言葉によると、その痔疾は、かなりひどくなっているそうである。
 それだけならば、漢青年は、我慢をしているつもりだった。ところが彼は問題を惹起《ひきおこ》さずにいられないことになったというのは、幾度《いくたび》もマリ子に、痔の清掃《せいそう》を命じているうちに、いままでのあらゆる彼の暴令に、唯の一度も厭《いや》な顔を見せたことのない彼女が、この痔疾の清掃には極度に眉を顰《しか》めていることに気がついたからであった。
 漢青年は遂に決心をして、家扶《かふ》の孫火庭を呼んで、痔疾《じしつ》の治療をしたいと云った。
 孫は非常に困ったような顔をしたが、
「何分ここは片田舎のことでございますから、杭州へ出まして医師を見つけて来ます間三日間お待ち下さいまし」
 と云った。
「何を措《お》いても、早くせい!」
 漢青年は家扶を激励したのだった。
 それから三日目のことだった。
 孫はニコニコして部屋に入ってくると、痔の医師を連れてきたことを報告したのち、
「この医師は、口が利けず、耳も聞こえませんから、何もお話しなさってはなりませぬぞ」
 と、厳《おごそ》かな顔付をして附加えた。
 そこへ王妖順が、一人の不思議な男を案内してきた。色の褪《あ》せた古い型の長衣を着ていて、いつも口をモグモグさせては、ときどきチュッと音をさせて、真黒い唾を嘔《は》いた。それは多分、よほど噛《か》み煙草の好きな男なのだろう。彼は黴《かび》くさい鞄を開くと、ピカピカ光る手術道具をとりだした。王と孫が、漢青年の衣類を脱がせた。
(マリ子が居てくれればよいのに、マリ子はどこへ行ったのだろう)
 漢青年は、マリ子が今日は少しも顔を見せないのに不審をうった。
 孫と王とが、漢青年の両脚を抑えつけていると、その噛煙草ずきの医師は、メスを探すやら、ガーゼを絞るやらで、ひとりで手《て》ン手古舞《てこまい》をしていた。
 漢青年は、退屈を感じて、医師の顔ばかりみていた。ことにそのよく動く唇を呆《あき》れて眺めていた。
(これは変だな)
 と、漢青年は胸のなかで呟《つぶや》いた。寝台の下でガーゼを絞《しぼ》っている医師の目は、何事かを彼に訴えるかのように、動いていた。そこの場所では、漢青年の脚を抑えている孫と王の視線が、全く届かないところだった。
 怪しい医師は、警告の目付をしたあとで、唇をビクビクと動かせた。
 漢青年は、しばらくその唇の動くのを見ていたが、
(呀《あ》ッ)
 とばかりに、心中驚いた。それというのが、この怪しい医師の唇は、煙草を噛んでいると見せかけて、唇の運動がモールス符号をうっているのだった。それを一々判読して綴《つづ》ってみると次のような文句になった。
「シュジュツゴ、ガーゼヲトッテ、テガミヲミヨ」
「手術後、ガーゼを取って、手紙を見よ」この信号は、繰返《くりかえ》し発信されたのだった。
 口の利けず、耳の聞えない医師は、最後に大きいガーゼをあてて、その周囲を絆創膏《ばんそうこう》で止めると、遂に一語も発しないで、部屋を出ていった。孫も王も、医師を見送るためにこの室から出た。
 漢青年にとって、チャンスは今だった。
 彼は手を伸ばすと、ガーゼを掴んだ。手を動かす練習をもうすこし遅く始めたのだったら、彼はこのチャンスを、むざむざと逃《の》がしたかも知れないのだ。
 ガーゼの中には、果して小さく折った紙片《しへん》が入っていた。彼は口も使って苦心の結果、その手紙というのを開くことに成功した。そこには、漢青年の脳髄を痺《しび》らせるほどの重大なことがらが認《したた》めてあった。
「今夜、電燈の消えるのを合図に、天井の硝子《ガラス》板を破って、脱《のが》れいでよ」
 漢青年は、三度ほど読みかえすと、その紙片を丸めて、ポンと口の内へ入れて、呑みこんだ。
 脱走せよ、という者がある。何者とも知れない。しかしこれも「死後の世界」に於ける幻想であろうか。
 これが生きているのだったら、軽々しい行動は考えなければならない。しかし、どうせ死んでいるものなら、二度と死ぬことはないだろう。無聊《ぶりょう》に困っている自分のことだ。ではやっつけろ――漢青年は決心した。
 だが、今はまだ日中《にっちゅう》である。西湖の方を眺めると、湖面がキラキラと光っている。屋根の硝子天井
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