の上からは、強い太陽の光線が、部屋中いっぱいにさしこんでいる。脱走しろという、夜分《やぶん》になるのは中々だ。
そう思って、漢青年は窓によりかかったまま、硝子天井のどの辺を破ってやろうかと上を見た。
そのときだった。
まさにそのときだった。
これが、天変地異《てんぺんちい》と、いうものだろうか。
奇蹟! とは、この事であろうか。
信ぜられない! 信ぜられない!
「呀《あ》ッ!」
漢青年が見上げていた硝子《ガラス》天井が、突然|真暗《まっくら》になった。あの、カンカン日の当っていた硝子天井が、一瞬間に光を失ってしまったのだ!
漢青年の毛髪は、あまりの恐ろしさのために、まるで針鼠《はりねずみ》のように逆立《さかだ》った。
「真逆《まさか》!」
窓の外を見ようとして振返ったが、そこには同じような暗黒があるばかりで、あの絵のような美しい西湖の姿は、どこにもなかった。
室内全体が、真暗《まっくら》だった。
こんな馬鹿げたことはない。漢青年は、自分の視力が一瞬に亡びたのかと思った。
それとも太陽が、突如として消滅し、世界が真暗闇に皎《かえ》ったのかとも思った。
「ドドドーン」
という音響をきいたと思った。
漢青年は、ハッと気がついた。
「今夜の停電というのが、これだ。そしてこれには、何か根本的の誤謬《ごびゅう》がある!」
彼は持っていたニッケルの文鎮《ぶんちん》を、ヤッと天井と思われる方向めがけて、投げあげた。
ガラガラと、硝子天井が崩れる音がした。
その途端に、パッと明るくなった。
二度目の奇蹟! 太陽は再び珊々《さんさん》たる光線を硝子天井の上に降りそそいだ。
「畜生! こんなカラクリに、ひとを騙《だま》しやがってッ!」
漢青年は、壊《こわ》れた天井の間から大空を見あげると、そこには碧《あお》い大空のかわりに、もう一層の天井があって、この二つの天井の間に燭力《しょくりょく》の強い電球がいくつも点いているのが見えた。ああ、この偽瞞《ぎまん》にみちたインチキ日光に、青年は幾日|幾月《いくげつ》を憧れたことだったろう。
彼は一つ肯《うなづ》くと素早《すばや》く、西湖《せいこ》を望む窓辺に駈けより、重い花壜《かびん》を※[#「てへん+発」、304−下−4]止《はっし》となげつけた。ガタリという物音がして、西湖の空のあたりが、二つに裂けて倒れた。これは、近視眼《きんしがん》の漢青年を利用したパノラマでしかなかったことが暴露《ばくろ》されたのだった。
外には、どうやら喊声《かんせい》があがっているような気配だった。
だが、どうしたのか、孫も王も、それからマリ子も上ってくる様子がなかった。漢青年は、片手にハンマーを掴《つか》むとヒラリと寝台の上に飛びあがり、やッと声をかけると、天井裏にとびついた。彼の全身にはエネルギーが、はちきれるように溢《あふ》れているのが感ぜられた。
彼の手に握られたハンマーは、天井板を木葉微塵《こっぱみじん》に砕《くだ》いていった。彼は勢いにまかせ、ドンドン上に向って出ていった。
壁土《かべつち》のようなものがバラバラと落ち、ガラガラと屋根瓦《やねがわら》が墜落すると、そのあとから、冷え冷えとする夜気《やき》が入ってきた。漢青年はその孔《あな》からヒラリと外に飛び出したのだった。
「おお、これは」
それは見覚えのある銀座裏の袋小路《ふくろこうじ》に相違《そうい》なかった。彼の立っているのは、カフェ・ドラゴンとお濠《ほり》との間にある日本|建《だて》の二階家の屋根だった。ハンマーで打ちぬいて来たのは、一部がとなりの煙突にぬける換気孔《かんきこう》だった。それは漢青年をして、杭州にある気持を抱かせるについて、二階家の中に建築した彼の密閉室《みっぺいしつ》の換気《かんき》を行う装置だった。
しかし、いつもの夜の銀座裏と違うところがあった。
それは、家の周囲に、幾千人の群集が集っていて、ワッワッと四方へ波のように動いていることだった。どこから射つのやら、ときどきヒューッと呻《うな》って、銃丸《じゅうがん》が耳をかすめて飛び去った。
「おお、此処《ここ》にいましたね、漢于仁《かんうじん》君」
いきなり漢青年の背後から声をかけたものがあった。彼はギョッとして、振向くとそこには夜目《よめ》にもそれと判る人の姿があった。それは、例の怪しい医師だった。
「これは一体、どうしたことなのです。そして君は誰です」漢青年の声は火のようであった。
「あなたの祖先《そせん》の地が、漢于仁君の帰国を待っています」その怪しい医師はパキパキした声で云った。
「なに!」
「一刻も早く御帰国なさい。だが此所《ここ》で御覧のとおり、事態は極度に悪化しています。遁《のが》れる路は唯一つ、お濠《ほり》をくぐって、山下橋《やましたばし》へ」
怪しい医師は、小さい包を、漢青年にソッと握らせた。青年は、その手を無言《むごん》の裡《うち》に、強く握りかえすと、そのままツツと屋根の上を走ると見る間に、ひらりと身を躍らせて、飛び降りた。大きな水音がきこえると、彼《か》の怪しい医師は、暗闇の中に、ニッと微笑したのだった。
4
「昨夜の事件は、当分記事禁止らしいね」私は、片手を繃帯《ほうたい》で痛々しく釣った帆村に云った。
「それほどのことでもないが」と帆村はニヤリと笑った。
「こっちで騒ぎを大きくしたようなものさ」
「ボラギノール一壜《ひとびん》で、君があんなに器用な真似をするとは思わなかった」
「君があの壜を拾ってくれなかったら、この事件は今頃どうなっていたか、しれやしない」帆村は、大きく溜息《ためいき》をついて、そこに脱ぎすててある中国医師の服装の上に目を落とした。
「だが孫火庭が呼びに来てくれるまでは、気が気じゃなかった」
「あの風変りな新聞広告が、きいたのだね」
「ふふ」なにを思いだしたのか、帆村が笑った。久振《ひさしぶ》りに見る彼の笑顔だった。
「漢青年は、うまく脱走したかなァ」
「大抵《たいてい》大丈夫だろう」
帆村は大して心配していない様子だった。
「それにしても、どうして孫火庭は、漢青年に背《そむ》いたんだ」
「大きな金と名誉とを握らされたんだよ」彼は嘔出《はきだ》すように云った。「中華民国の崩壊をなんとかして支えようという某要人《ぼうようじん》が、孫を買収したのだ。王妖順はその要人の一味だ。もし漢青年が今日《こんにち》のように切迫《せっぱく》した時局を知ったなら、彼は立《た》ち処《どころ》に故山《こざん》に帰り、揚子江《ようすこう》と銭塘口《せんとうこう》との下流一帯を糾合《きゅうごう》して、一千年前の呉《ご》の王国を興したことだろう。それは中国の心臓を漢青年に握られるようなものだ。だから当分のうち時局の切迫を漢青年に報《しら》せずに置くことが、必要だったのだ。そうかと云って、彼の生命を断《た》つことは、今日あの辺に巨富《きょふ》を擁《よう》している大人連《たいじんれん》の怒りを買うことであって、それは不利益だ。そこで漢青年を、ソッと幽閉《ゆうへい》して置くことになったのだ。それも普通の方法では、漢青年の疑惑を避けることができないから、あのような面倒な道具建《どうぐだて》をし、彼《か》の青年の知覚を鈍麻《どんま》させて、あの狂言をうったのさ。これは中国人でなければできない用意周到ぶりだよ」
「すると、マリ子という女は、一体どうしたわけのひとなんだね」
「あれは、すこしばかり儲《もう》け仕事をした女にすぎない。無論中国人ではなく、われわれと同じ国籍をもっているんだよ。事件の中に若い女が一人とびだすと、すぐその女が主人公《ヒロイン》になってしまうことが世間には多いが、今度の事件では彼女は一個のワンサ・ガールに過ぎなかった。殺人がなかったことと、それとが、今度の事件の二つの特異性だったとでも、こじつけ迷説《めいせつ》を掲《かか》げて置くかね。はっはっは」
底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房
1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「新青年」博文館
1932(昭和7)年4月号
入力:浦山聖子
校正:土屋隆
2007年8月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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