るものに注意を向けた。ことに彼を喜ばせたものは、音響だった。どんな微《かす》かな音響であっても、彼は見遁《みのが》すことなく、その音響が何から来るものであるかについて、考えるのが楽しみになった。ことに、どうしたわけか、この楼台《ろうだい》が震動すると共に起る音響に対して、興味がひかれたのだった。うっかりしているときには、それを東京時代に経験した自動車の警笛《けいてき》のように聞いたり、或いは又、お濠《ほり》の外に重いチェーンを降ろす浚渫船《しゅんせつせん》の響きのようにも聞いた。しかし、のちになって、それと気がつき、苦笑がこみあげてくるのだった。この杭州の片田舎に、円タクの警笛の響きもないものである。
 そのうちに彼は、知覚のまるで無い他人の手足のような四肢を、意のままに少しずつ動かすことを練習にかかった。それは彼の視覚の援助によって段々と正確に動いて行った。それは非常に大きい喜びに相違なかったのである。
 この調子で身体がうまく動くようになったら、彼は何に措《お》いても、この天井の硝子《ガラス》板をうち破り、その孔《あな》から、楼上《ろうじょう》へ出てみたいと思った。そして広々とした
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