べが》けの刺繍《ししゅう》、さては誤って彼が縁《ふち》を欠《か》いた花瓶までが、嘗《かつ》て覚えていたと同じ場所に、何事もなかったかのように澄しかえって並んでいたのだった。すると、この室は?
「これは、故郷の杭州に建っている鳴弦楼《めいげんろう》だ。少年時代に遊びくらした部屋ではないか、おお、あすこには、懐《なつか》しい小窓《こまど》がある。あの外には絵のように美しい西湖《せいこ》が見えるのだ。見たい、見たい、生れ故郷の西湖を!」
漢青年はムックリ起きようとして、ハッと顔色をかえた。手が無い、足も無いのだ。いや身体全体が無いのだ。「おお、これはどうしたことだ」
彼は、気が変になったようになって、あたりを見廻した。室内の光景に、不思議はなかった。そして、いや、あった。あった。寝床の上に、彼の足が、長々と横たわっていた。胴もある。おお、手も見えるではないか。
彼は、再び起きようと試みた。
だが、驚いたことに、眼でみると、そこに在るに違いない手だの脚だのが、動かそうとなると、俄《にわ》かに消えてなくなったように感じられるのだ。言葉を変えていうと、全身にすこしも知覚が無いとでも言おうか
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