、彼女がこの部屋に入ったときからあそこにいて、静かに仕事をつづけているらしい。なぜなら、彼はどこへ立った気配《けはい》もないから、やはりあそこにいるにちがいないのだ。
「あっ、先生。およし遊ばせ。あの衝立の向うに仕事をしていらっしゃる所員の方に対しても、恥《はず》かしいとお思いにならないんですの」といって、帆村に握られた腕を無理やりに払った。
「えっ、所員ですって。そんな者はいませんよ。きょうは僕一人なんです」
「でも、さっきあの衝立《ついたて》の向うから……」
「あっはっはっ、あの声ですか。あれは所員がいて、声を出したわけではなく、録音《ろくおん》の発声器《はっせいき》なんです。自動式に、訪問客に対して挨拶をする器械なんですよ。嘘だと思ったら、こっちへ来て衝立の蔭をごらんなさい」
「そんなこと、嘘ですわ」と光枝はいったが、衝立の後を見ないではいられなかった。帆村が後にさったのを幸《さいわ》いに、素早《すばや》くそこを覗《のぞ》いてみて、あっと愕いた。なるほど、衝立の後には、誰もいない。小さな卓子《テーブル》のうえに、なるほど録音の発声器らしいものが載っているだけだ。その附近には、人間
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