、彼女がこの部屋に入ったときからあそこにいて、静かに仕事をつづけているらしい。なぜなら、彼はどこへ立った気配《けはい》もないから、やはりあそこにいるにちがいないのだ。
「あっ、先生。およし遊ばせ。あの衝立の向うに仕事をしていらっしゃる所員の方に対しても、恥《はず》かしいとお思いにならないんですの」といって、帆村に握られた腕を無理やりに払った。
「えっ、所員ですって。そんな者はいませんよ。きょうは僕一人なんです」
「でも、さっきあの衝立《ついたて》の向うから……」
「あっはっはっ、あの声ですか。あれは所員がいて、声を出したわけではなく、録音《ろくおん》の発声器《はっせいき》なんです。自動式に、訪問客に対して挨拶をする器械なんですよ。嘘だと思ったら、こっちへ来て衝立の蔭をごらんなさい」
「そんなこと、嘘ですわ」と光枝はいったが、衝立の後を見ないではいられなかった。帆村が後にさったのを幸《さいわ》いに、素早《すばや》くそこを覗《のぞ》いてみて、あっと愕いた。なるほど、衝立の後には、誰もいない。小さな卓子《テーブル》のうえに、なるほど録音の発声器らしいものが載っているだけだ。その附近には、人間の出ていく扉もなければ、人間の身体が隠れる物蔭もない。するとやっぱり帆村のいったとおりなのである。
また新たなその大きな愕きと、そしていよいよこの部屋の中に、自分は帆村と二人きりなんだと思うと、俄にぞくぞくとしてくる或る危険に対する戦慄《せんりつ》! 光枝は、とんでもないところへ来たものだと、胸がどきどきだ。はじめから安心しきって来ただけに、彼女はこの不意打《ふいうち》に狼狽《ろうばい》するしかなかった。あの入口には、きっともう、扉をしめるとがちゃんと閉る自動錠がかかっているのであろう。壁はこのとおり厚いし、第一窓というものがない。いくら喚《わめ》いたって、もうどうにもなるまい。こうなるのも運命だ。彼女は、すっかり観念して、目を閉じた。
奇妙な任務
そのとき帆村の声が光枝の耳に入った。
「いや、どうも失礼しました。これからお願いする仕事に関して、予《あらかじ》め貴女の処女性反撥力《しょじょせいはんぱつりょく》といったようなものを験《ため》しておきたかったのです」帆村は、急に意外なことをいいだした。
「えっ、まあそんな……」
「でも、こいつばかりは話だけでも信用がなりません。やっぱり実験してみなくちゃね。さあ、そこへもう一度掛けてください」
光枝は、腹が立つというのか、それとも俄《にわか》に安心をしたというのか、妙な気持で、再び椅子に腰を下ろした。この年齢になるまで――といって彼女はお婆さんだという意味ではない、これはそっと読者に知らすわけだが、風間光枝の本当の年齢は、当年《とうねん》とってやっとまだ二十歳なのである。――とにかく、こんなに愕きの連発をやったことがなかった。彼女は、改めて帆村の顔をぐっと睨みかえした。このまま部屋を出ていってやろうかと思ったほどだが、女探偵ともあろうものがと、どうにかこうにか自分の激情《げきじょう》をおし鎮め、帆村の次なる言葉を待った。
「うむ、僕は満足です。貴女なら、きっとうまくやるだろう」と、帆村はもとの冷い顔になって、しきりにひとりで肯《うなず》いて、
「――さて、貴女に頼みたい仕事のことなんですがね。或るお屋敷で、主人公が小間使《こまづかい》をさがしているのです。尤《もっと》も、前にいた小間使の娘さんは、僕が買収して、親の病気だと申立てて辞《や》めさせたんです。そこで後任《こうにん》の小間使が要《い》るわけだが、ぜひ貴女にいって貰いたいのです」いよいよ帆村は、こうまで彼女に手間どれた重大事件について語りだした。
「ねえ、ようがすか。そのお屋敷は、最近建てたばかりの洋館です。貴女は今もいったとおり小間使だが、こんど主人公の希望に従って、貴女は洋装をしてもらわねばならない。明朗《めいろう》な娘になるのです。いま国策《こくさく》で問題になっているが、これも仕事のうえのことだから、ひとつ思い切って猛烈なパーマネントに髪を縮《ちぢ》らせてください」
光枝は、最初はなにいってるかと思って聞いていたが、聞いているほどに、だんだん興味を覚《おぼ》えてきた。これはなかなか念のいった冒険劇のようである。
「そこで、向うへいって貴女のする仕事だが、もちろん小間使なんだから、インテリくさい顔をしてはいけない。ほら、いまどき銀座通を歩けば、すぐぶつかるような時局柄《じきょくがら》をわきまえない安い西洋菓子のような若い女! あの人たちの表情を見習うんですな。いや、これは女性の前で、ちと失言《しつげん》をしたようだ」
光技は、またむらむらとしてきたものだから、何もいわずにいた。
「いいですか。向うへいったら、気をつ
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