什器破壊業事件
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)女探偵《おんなたんてい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)絶対|出入差止《でいりさしと》め

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)旦那様はやま[#「やま」に傍点]を持っていらっしゃる
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   女探偵《おんなたんてい》の悒鬱《ゆううつ》


「離魂《りこん》の妻《つま》」事件で、検事六条子爵がさしのばしたあやしき情念燃ゆる手を、ともかくもきっぱりとふりきって帰京した風間光枝《かざまみつえ》だったけれど、さて元の孤独に立ちかえってみると、なんとはなく急に自分の身体が汗くさく感ぜられて、侘《わび》しかった。
「つよく生きることは、なんという苦しいことであろうか?」
 彼女は、日頃のつよさに似ず、どういうものかあれ以来急に気が弱くなってしまった。たったあれくらいのことで、急に気が弱くなってしまうというのも、所詮《しょせん》それは女に生れついたゆえであろうが、さりとは口惜《くちお》しいことであると、深夜ひそかに鏡の前で、つやつやした吾れと吾が腕をぎゅっとつねってみる光枝だった。
 彼女の急性悒鬱症《きゅうせいゆううつしょう》については、彼女の属する星野私立探偵所内でも、敏感《びんかん》な一同の話題にのぼらないわけはなかった。だが、余計な口を光枝に対してきこうものなら、たいへんなことになることが予《かね》て分っていたから、誰も彼も、一応知らぬ半兵衛《はんべえ》を極《き》めこんでいたことである。
 ところが、或る日――星野老所長は、風間光枝を自室へ呼んで、
「君はなにかい、帆村荘六《ほむらそうろく》という青年探偵のことを聞いたことがないかね」
 と、だしぬけの質問だった。
 帆村荘六――といえば、理学士という妙な畑から出て来た人物だ。それくらいのことなら光枝も知っているが、他はあまり深く知らない。そのことをいうと、老所長は、
「あの帆村荘六という奴は、わしと同郷《どうきょう》でな、ちょっと或る縁故《えんこ》でつながっている者だが、すこし変り者だ。その帆村から、若い女探偵の助力《じょりょく》を得たいことがあるから、誰か融通《ゆうずう》してくれといってきたんだ。どうだ、君ひとつ、行ってくれんか」
「はあ。どんな事件でございましょうか」
「いや、どんな事件か、わしはなんにも知らん。ただはっきり言えるのは、彼奴《あいつ》はなかなかのしっかり者で、婦人に対してもすこぶる潔癖《けっぺき》だから、その点は心配しないように」
 老所長の言葉は、なんだか六条子爵のことを言外《げんがい》に含めていっているようにも響《ひび》いた。
 とにかく風間光技は、日毎夜毎《ひごとよごと》の悒鬱を払うには丁度《ちょうど》いい機会だと思ったので、早速《さっそく》老所長の命令に従《したが》って、自分の力を借りたいという帆村荘六の事務所へでかけたのだった。
 帆村の探偵事務所は、丸《まる》の内《うち》にあったが、今時《いまどき》流行《はや》らぬ煉瓦建《れんがだて》の陰気《いんき》くさい建物の中にあった。びしょびしょに濡《ぬ》れたような階段を二階にのぼると、そこに彼の事務所の名札《なふだ》が下げてあった。彼女は、入口に立っていちょっと逡巡《しゅんじゅん》したが、意を決して扉を叩いた。すると中から、
「どうぞ、おはいりください。扉に錠《じょう》はかかっていませんから、あけておはいりください」
 と、若々しいはっきりした声が聞えた。風間光枝は、吾れにもなく、身体がひきしまるように感じて、扉を押した。すると、室内には、入ったすぐのところに大きな衝立《ついたて》があって、向うを遮《さえぎ》っていた。その衝立の向うから、ふたたび声がかかった。
「さあどうぞ。どうぞ、その椅子に掛けて、ちょっとお待ちください。ちょっといま手が放せないことをやっていますから、掛けてお待ちください」
「はあ、どうも。では失礼いたします」
 風間光枝は、挨拶《あいさつ》をかえして、入口を入った左の隅《すみ》のところにある応接椅子に腰を下ろした。その傍《わき》に、別な部屋へいくらしい扉があって、閉っていた。その扉のうえには、どこかの汽船会社のカレンダーが「九月」の面《めん》をこっちに見せて、下っていた。
 光枝の腰を掛けているところからは、やはり衝立の奥が見えなかった。彼女はしばらくじっとしていた。衝立の向うで声をかけたのは帆村であろうが、彼は一体なにをしているのか、ことりとも物音をたてない。
 彼女は、すこし待ちくたびれて、眠気《ねむけ》を催《もよお》した。欠伸《あくび》が出て来たので、あわてて手を口に持っていったとき、突然思いがけなくも、彼女が腰をかけているすぐ傍《わき》の扉が
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