つと手を額の方に伸ばした。そのとたんであった。彼女の背後にえへんと大きな咳払いが聞えた。
(失敗《しま》った!)と思ったが、もう遅い。あの咳払いは、旦那様だ。


   意外なる収穫《しゅうかく》


「ギンヤ、そこでなにをしているのじゃ」
「はい。この額がすこし曲って居りますので」
「なに、曲っていたか。はっはっはっ、曲っていてもいい。そのままにしておけ」
「でも、すぐでございますから」
「いや、手をふれることならん。すこしの曲りを直すつもりで、とたんに下に落されて、額がめちゃめちゃに壊れてしまっては大損じゃからな。わしはもういい加減《かげん》懲《こ》りとるでな」
「どうもすみません」
「なあに、謝まらんでもいい、壊されるのには懲りていながら、あんたに居てもらうというは、そこにソノ……」といっているとき、廊下の向うから、呼ぶ声がしたので、光枝は毒蛇《どくじゃ》の顎《あぎと》をのがれる心地《ここち》して、旦那様の前を退《さが》った。
 それから暫《しばら》くして、光枝は、菊の花を一杯生けこんだ大花瓶をもって現れた。そしてそれを本棚の上にそっと置いた。そして電気をつけた。
 旦那様は、安楽椅子に寄懸って、もう居睡《いねむり》をしてござった。だがそれは狸寝入《たぬきねいり》らしく、ときどき瞼《まぶた》がぴくぴくと慄《ふる》えて、薄眼があく。もちろん旦那様の視線は、光枝の着物のうえから身体をつきさしている。
「旦那様、御入浴《ごにゅうよく》をどうぞ」
「いや、きょうはわしは、はいらんぞ」
 眠っている筈の旦那様が、はっきり返事をした。あの入浴好きの旦那様が、いつになくはいらないとおっしゃる。
 光枝は、ははあと思った。
(ああそうだったのか。帆村先生が、もう一ヶ所、位置の変ったものがある筈だとおっしゃったのは、この意味だったか)
 ――というのは、外でもない。たしかに、或る一つの重要物件が、あの陽明門《ようめいもん》の額から取出されたのだ。そしてこの居間の、他のいずれかの場所に移されたのだ。帆村はその移された場所を光枝に質問したのだ。ところが光枝は、知らないと答えたので、帆村が悲観したのであるが、まさかその重要物件が、陽明門の額から出て、旦那様の懐中《かいちゅう》に移されたとは、さすがの帆村も気がつかなかったのであろう。しかるに光枝は一歩お先に、そのことに気がついた。
 
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