老人が元気いっぱいだったことである。牢の中でも、首領の前へ呼びだされたときでも、老人は一歩も歩けない重病人《じゅうびょうにん》のように見えた。それは、わざと重病人の風をよそおっていたのにちがいない。
 しかし老人が、いくら巧《たく》みに抜け道から抜け道をたどって逃げたにしろ、わるがしこい四馬剣尺《しばけんじゃく》の張ってある網の目をすべてくぐりぬけることはできないはずだった。だがすばらしい幸運が、老人と二少年とを助け、一度もへまをやらないで山塞の脱出に成功した。その幸運というのは、ちょうどこのとき山塞の中は、机博士事件でごったがえしていて、要所要所の見張りはおろそかになっていたのだ。
 なにしろ、おそろしいでき事だった。
 町まで使いにいって、ちょうど山塞の近くへもどってきた一味《いちみ》の一人が、ふと目をあげたとき、妙なものを見つけた。身体をぐるぐる巻きにされた一人の人間が、崖《がけ》から横にでている電柱のような長い棒の先から吊り下げられ、ぶらんぶらんと揺《ゆ》れているのであった。
「うわッ、あぶねえ」
 その使いの者は、仙場《せんば》の甲二郎《こうじろう》という男であったが、彼はびっくりして胆《きも》をひやし、その場へどすんと尻餅をついたくらいだ。見ていると、ますます人間は揺れ、今にもロープが棒の端からとけ、吊り下げられている奴は崖下へまっさかさまに落ちていきそうだ。甲二郎は、気が落ちつくのを待って立ち上ると、こんどは駆《か》け足でもって、山塞へとびこんだ。そしてこの変事《へんじ》を知らせたのである。もちろん、棒の先に吊り下げられて、ぶらんぶらんしていた人間は、机博士にちがいなかった。猫女の姿は、どこにも見えない。
 甲二郎の知らせで、さっきから机博士の行方《ゆくえ》を探していた団員たちは、それというので、山塞からとびだして、崖の上を見上げた。
「うわははは、たいへんだ。見ちゃおれん」
「たしかに机博士だ。早く下へ網を張れ」
「おい、首領に報告したか」
「知らせたとも。今ここへ、首領もでてくる、といってた」
 こんなさわぎが起っていたから、二少年と戸倉老人の脱出は、あんがい楽に行われたのだ。そしてみんなが網を張れだの、崖の上へいってそっと綱をひいてみろだの、竹ばしごを組んで二人ばかり登って助けろだのとさわいでいる間に三人の脱走者は反対方向の山へまぎれこんでしまったのである。

   生命《いのち》がけの脱出

 二少年と戸倉老人とは、たがいに助けあって、山また山をわけて逃げた。
 本道《ほんどう》へでると、六天山塞《ろくてんさんさい》の悪者どもに見つかるおそれがあるので、道もないところを踏み分け、わざわざ遠まわりをして逃げた。山のことは、さいわいにもこの土地生れの牛丸少年がたいへんくわしいので、方向をあやまるようなことがなかった。山塞を抜けでたのが、朝の八時ごろであった。それから太陽が一番高くなる正午に近くまでの約四時間を、三人は強行《きょうこう》して逃げた。
 腹が減《へ》ってならなかったが、戸倉老人はさすがに用意がよく、腰につけてきた包みの中から、チョコレートとビスケットを出して、二少年に分けあたえた。おいしかった。谷間の水にのどをうるおしながら、三人は、あらたな元気をふるい起し、それから又もや苦しい行進をつづけた。
 牛丸少年の考えでは、思い切って西の方へ迂回《うかい》し、タヌキ山から山姫山《やまひめやま》の方へでて、それを越えて千本松峠《せんぼんまつとうげ》へでるのがいいと思った。しかしそこまでゆくには、今日いっぱいではだめだ。どうしても明日までかかる。今夜は山姫山のどこかで野宿するほかない。
 千本松峠へでれば、あと四時間ばかり下って、芝原水源地《しばはらすいげんち》の一番奥の岸につく。そこへゆけば、水道局の小屋もあるし、うまくいくと巡回《じゅんかい》の人がきているかもしれない。あとは心配ない。とにかく問題は、千本松峠へでるまでのところにある。方角はたぶんまちがえないですむと思うが一同の体力がつづくかどうか、きっとヘリコプターをとばして追跡してくるであろう、四馬剣尺の一味の目を、うまくのがれることができるかどうか、その二つにかかっているのだ。
 牛丸少年は、今日のうちに山姫山までたどりつかねばならぬという計画を他の二人に話し、その日の午後は、とくに前後に気をくばりながら、できるだけ強行進《きょうこうしん》をつづけてもらった。午後二時ごろと思われるときに、果して空の一角にぶーンと爆音が聞え、やがてヘリコプターが姿をあらわした。
「そらきたぞ。動いちゃいかん。ぜったいに動くな」
 戸倉老人が、叱りつけるようにいった。
 このとき三人は、背の低い熊笹《くまざさ》のおい茂った山の斜面《しゃめん》を下りているところだった。
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