んだばかりで、釘づけになってしまった。それは、彼が今とがめた相手の婦人の姿が、まるで影のようにもうろうとしているばかりか、その顔がぞうっとするほどの苦悶《くもん》にみちていたからである。店主はそのけわしい幽霊の顔に見すえられて、息の根がとまるほどにおどろいた。
 がらがらがらと音をたてて薬の壜《びん》が棚から落ちはじめたので、店主はようやくわれにかえり大声で救いをもとめた。それから大さわぎになった。店の中も店頭もめちゃめちゃになって、警官隊のかけつけたときには、足のふみ入れようもなかった。もっとも店頭がそんなにめちゃめちゃに壊されたのは、女幽霊が手を下したのではなく、このさわぎに乗じて、たちのよくない群衆がなだれこみ勝手なふるまいをした結果であった。
 捜査課員の出張があって、この事件が、女幽霊の仕業《しわざ》だと分ったときには、さらに大きなさわぎとなった。
 こんな事件が、つぎつぎと発生した。
 恐怖と戦慄が、都下全体へひろがった。
 女幽霊が、いつ侵入してくるかもしれない! 女幽霊はどんな厳重な戸締《とじまり》でも平気で入ってくる! 女幽霊をいくら追いかけても追いつけるものではない、なぜなら女幽霊は鉄の塀でも石の壁でもすうすうと向うへ抜けていってしまうからだ! 女幽霊に入られると、家の中がひっくりかえされる!
 女幽霊の顔ときたら、般若《はんにゃ》よりもおそろしかった! 口が耳のところまで裂けていたそうな! すごい眼付で睨んで、のろいのことばをなげつけた! のろわれた者は、それから三日目に高熱を発して死んでしまった。
 こんな風に、女幽霊についてあること無いことが入れ換って、噂《うわさ》となってとんだ。
 それとともに、捜査課に対する非難の声が高まっていった。捜査課は一体なにをしているのか。こうたびたび都下にあらわれて、みんなに迷惑をかける幽霊を、なぜ逮捕することができないのか。一体あの女幽霊はどういう筋合いのものか、分っているだけのことでも早く都民へ知らせてくれたがいいではないか。幽霊の侵入を防ぐ最も有効な方法を至急研究して知らせてくれないと困るなど。
 田山課長の顔は、ますます苦り切ってゆく。何日たっても、女幽霊に対して、これぞという解決も報告もできないのだ。しかるに新聞社の写真班が、女幽霊をうつそうとして競争で追いかけまわす、放送局では女幽霊の呻《うな》り
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