では、彼が曲馬団時代に怨恨を残して来た者がわが家に忍びよって殺したとも思われない。ただ、曲馬団というので思い出したが、あの静枝はその例外だと思う。
 静枝! 静枝!
 そうだ静枝が殺したのではなかろうか。静枝のことは、速水女史の調べで妾のはらから[#「はらから」に傍点]ということが判明したことになっているが、真一から聞《き》いたところによると、元同じ銀平の曲馬団にいたお八重という蛇使いだという話であった。彼女の秘密が旧い馴染の真一の口から洩れそうだと知ると、これは殺しかねないことだろうと思われた。だがそれをハッキリ云うには、それほど確かな証拠が揃っていない。それに真逆《まさか》あのような優しい静枝がとは思うが、これは一つ確かめてみる必要があると思った。
「真一を殺したのは、誰だ?」と。
 もう妾は静枝を疑う気はしなかった。誰か外《ほか》に真一殺しの真犯人がいなければならぬ。そういえば、あの日気がついたことだが、確かに閉めさせてあったと思った奥庭つづきの縁側の雨戸に締りがかかっていなかった。その奥庭というのは玄関脇の木戸さえ開けばそのまま入って来られるようになっていたのであるから、これはひょっとすると、玄関の方から誰かが密かに縁側へ廻って来て、あの室内の水瓶に毒を混入した。それを知らないで真一が水瓶からコップに水を注いで嚥み、あのように死んでしまったのではないかと考えた。そうでないと、あまりにも不思議な毒物の出現であったから。
 そこに気がついた途端に妾はいままですっかり忘れていたあの夜の重要人物のことを思い出した。それは妾が真一と共に離座敷に入ろうとしたときに、キヨが玄関に来訪を告げに来た未知の紳士のことだった。キヨの言葉を借りると、その紳士と妾とは、男と女との違いこそあれまるで瓜二つのように似ていたので愕いたということである。その紳士に逢おうとて、妾が玄関に出て行ったときには、どうしたものか姿が見えなくなっていた。それから妾はキヨにいろいろ命じたりして、約五分か十分経って、妾が離座敷に行ったときには、もう真一が斃《たお》れていたのであった。それから以来、あの妾によく似ているという紳士には逢わないが、彼こそそのような奇術めいたことが出来る立場にあったのではなかろうか。一体あれは誰だったろう。
 そこで妾は勝手の方からキヨを呼びよせて、怪紳士のことを尋ねてみたのであった。
「ああ、あの紳士の方のことでございますか」
 とキヨは俄かに狼狽《ろうばい》の色を示しながら、
「まあ奥さま、あたくしどういたしましょう。真一さまのことで大騒ぎとなりましたので、忘れていましたが、実はあの夜あれからもう一度、あの方にお逢いしたのでございます」
 そこで訊《たず》ねてみると、妾が寝室へ引取ってからものの五分と経たないうちに、彼の紳士はまた玄関に入って来たが今夜は逢わないという奥さまのお云付《いいつ》けを伝えるとそのまま帰った。しかし自分の名前を名乗りもせず、九月の始めになると、また当地を通るから、そのときに気が向いたら寄ろうなどと云ったそうだ。なんという不可解な紳士だろう。話をきくと、妾に好意を持っているようでいて、よく考えると行動の上に於て、この位怪しい人物はないと思われる。黙って殺人をして引取っていったとすると、これは実に大胆不敵な兇漢であるといわなければならない。妾を吃驚《びっくり》させるなんて――殺人者として妾の目の前に立って吃驚させるぞという悪党らしい遊戯かも知れない。
 ただ腑に落ちないのは、妾にこの上なくよく似ているということである。静枝がよく似ていると自分でも思っているがキヨはそれよりももっとよく似ているという。未知の同胞《はらから》を探していると公表したけれど、こう後から後へと妾によく似た人物が出て来たのでは、気味がわるくて仕方がない。
 妾は、その怪紳士が寄るかもしれないと云い残して置いた九月を迎えるのが、急に恐ろしく感ぜられてきた。


     7


 八月も末になって、暑さが大分|和《やわ》らいで来た。
 或る日妾は、なんとなく家にいるのが堪えられなくなってブラリと邸を出た。久し振りの散歩につい興に乗って、思わずも歩を搬びすぎ、いつの間にか隣村の鎮守《ちんじゅ》の杜《もり》の傍に出た。そしてそのとき杜蔭に思いがけなくも、曲馬団の小屋が掛っているのを見て、たいへん奇異の感にうたれたが、近づいてみると、古ぼけた蝦茶色《えびちゃいろ》の緞帳《どんちょう》に金文字で「銀平曲馬団」と銘がうってあったのには、夢かとばかりに驚いた。銀平曲馬団といえば、これは亡き真一が一座していたという曲馬団と同じ名であった。
 そこで妾は、小屋の前へ廻って中を覗いてみたが、生憎《あいにく》一座は休演していることが分った。横手の草地の上には顔色のよく
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