その考えもつきたころ、僕は、
「ああ、そうだ。……忘れていたぞ、恋人の鍵を!」
 恋人の横顔を刻んである鍵――それをトンと忘れていたのだった。僕はそれを膚につけていた。それを取出して、じっとその横顔を眺めた。鍵の握り輪の中の女は、ウェーブをしたような髪を結っていた。すんなりと伸びた鼻すじ。小さい眉、ことにつぶらな下唇、そして形のいい可愛い頤……
「もし、北川さん」
 わが名を呼ぶこえに、目覚めてみると、傍に秀蓮尼が座っていた。いつの間に庵主は帰ってきたのか気がつかなかった。僕はいい気持になって、昼寝をしていたものらしい。
「やあこれは……」
 僕はガバと起き直るなり、頭を掻《か》いた。秀蓮尼の顔を見ると、これは愕いた。なにごとが起ったのであろう。彼女の顔色は紙よりも白かった。――
「北川さん。この鍵は貴方のですの」
「そうです、僕のですよ」
「どこで手に入れなさいまして?」
「それは、――」
 といったが、秀蓮尼は眼を輝かし、いまにも飛び掛ろうという勢を示していた。これは思いがけない大事件になった。何が俄《にわ》かに仏《ほとけ》のような彼女を、セパート犬のように緊張させたのかまったく彼女は別人のごとくになった。
「それは、森おじさんの戸棚の中で拾ったものですよ」
「森おじさんというと……」
「ゆうべお話した森虎造のことですよ。僕の母親が、いま泊っている筈《はず》の家です」
「ああ、そうですか。……貴方は森虎造の戸棚の中に、これと一緒にあった美しい貼り交ぜをしたこれ位《ぐらい》の函を見ませんでした?」
 といって尼は、弁当函ほどの箱の大きさを手で示した。彼女の云うので思い出したが、僕が森虎の戸棚探しを始めて間もない頃、一つのトランクの中に、いま話のような美しい小函を見つけたことがあった。それは玩具のように美しかったので覚えている。手にとりあげてみると、たいへん軽かった。開けようとしたが錠がかかっていた。耳のところで振ってみると、コソコソと微《かす》かな音がした。大したものも入って居らぬらしく、それにそのときは鍵が見つからなかったので、そのまま元のようにして置いた。その後、そのトランクに錠がかかって、もう見られなくなった。――僕は尼がその函のことを云っているのだと思った。しかしそれにしても、何故そんな函のことを隆魔山《こうまさん》の尼僧が知っているのだろう?
 僕が黙っているのを見ると、秀蓮尼はジリジリと膝をのりだして、いきなり僕の腕を捉えた。
「ね、その函のことを御存じなんでしょう。さあさあ早く云って下さいませ。イヤこうなれば何もかもお話しましょう。ねえ北川準一さん。その美しい函は、実は貴方の亡くなった父君準之介氏が、米国にいられるとき秘蔵していられたという問題の函なんですよ」
「なんですって?」
 僕は心臓の止るほど愕いた。このような偏土《へんど》に来て、しかもこのような神秘な尼僧院の中で、そして一夜を一つ衾に夢を結んだ生命の恩人である尼僧から、突然懐かしい父の名を耳にしようなどとは夢にも思いがけぬことだった。
「庵主さんは、僕の亡き父をご存じなんですか?」
 尼僧はちょっと眼を伏せたが、
「ええすこしは存じているといったがいいのでしょう。いずれ詳しいお話をするときが来るでしょう」
「庵主さん、貴方は失礼ながら、どんな素性の方ですか」
 尼僧はそれには応えようともせず、
「その函の中には、或る秘密があるのです。あたしはその在所《ありか》を探していたのです。貴方のお持ちの鍵は、その函を開く鍵なんですのよ。どうかその鍵をあたしに譲って下さらない。悪いようにはいたしません。その代り、今夜にも、貴方を安全にこの島から逃がしてあげます」
「僕は逃げるのはよします。それに母親もいますし……」
「母親! ああお鳥さんのことをいっているのですね。あれは貴方には関係のない継母なんです。それよりもぐずぐずしていて森虎造に見つかってごらん遊ばせ、立ち処に生命はありませんよ。まず貴方の身体を安全なところへ置くことです。……お分りになったでしょう。さあ、その鍵を、あたしに渡して下さい!」
 そういわれてみると、僕は鍵を渡さないわけにはゆかなかった。しかしこの思い出深い鍵の中の恋人に別れることはなかなか辛いことだった。
「渡してもいいのですが、……実はこの鍵の中には僕の恋人がいるのです」
「鍵の中に恋人が?」
 美しい庵主は愕いて目をみはった。それで僕は思いきって、鍵の中の恋人の話をした。それから昨夜街の軒下で見た高島田に振袖の美しい女が、この恋人と同じような顔をしていたことを述べた。
「まあ、――」と尼は面白そうに微笑して「貴方は、昨夜|妾《わたし》を教えたその女の人がお気に召したのネ」
「庵主さんの前ですが、僕はあの娘さんのことがだんだん恋しくなって
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